書き手と編集さん

緋野晴子の「青い鳥のロンド」は売れているのだろうか? と、また考えても詮無きことを考える。 「沙羅と明日香の夏」がよく売れたのは、推薦があって、教育界にアピールしたためだろう。 今回は何もない無名人の文芸書。そうでなくとも売れない文芸書だから心配している。

たくさん売れるとは思っていないし、たくさん売れなくてもいいのだけれど、書店からある程度売れてくれないと困る。 出版社さんに借りが返せないから。
 
書き手にとって、編集さんという存在は、たいへんありがたいものだ。 一作書き上げても、これではまだ駄目だと自分で思う部分があって、さりとて書き直しは厄介なものだから、なんとなくズルズルと日常の仕事に埋没していると、見ていたかのように電話が来て、「作品はどうなった?」と聞かれる。「まだ不十分なので投稿もしていません」と答えると、ビシビシ尻を叩かれる。
 
 「漫然とひとりで書いていては駄目だ、誰かに読んでもらえ、師を持て」
 「毎日、必ず書け」 「10回でも20回でも書き直せ」 
 「辞書を暗記するほど言葉の勉強をしろ」 「文学サークルに入れ」
 「少なくとも3冊は出版しないと書き手として相手にされない」
 「どっちを向いて書いてるの? 売れるほう? 文学界?」・・・等々
 
編集さんのアドバイスを受けて編集さんの社から出版をという、半分は営業トークの一環だと思うけれど、それだけでもない。小説への熱意が伝わってくる。
マイペースでやればいいと思っている私も、妙にこのままではいけないという気持ちになってくる。
 
結局不十分なまま投稿した文学賞に落ちて、出版社に原稿を送ると、こんどは、これでもかというほどクソミソの評が来る。けれどもそれらは、実は自分でも、これではと思っていながら厄介なので目を瞑っていた、その何かばかりなのだ。そこをパンパン指摘されると、実に気持ちがいい。この人の眼は節穴ではないなと思うと嬉しくなってくる。
 
それで、(ブルータス、君もそう思うか)というわけで、(しょうがない、やるか)という気持ちになる。そしてやると、面白いようにできるのだ。
メスを入れるのが面倒だったところほど、入れてみると思わぬ良い展開が生まれるという実感がある。 出版作はそうやって生まれる。
 
出版社は慈善事業をしているわけではないから、何のネームバリューもない作者に全額の援助はしてくれないけれども、かなりのただ働きをしてもらっている。
今回は予約をたくさんいただいたお蔭で、少なくとも損害は出さずに済んだのではないかと推測するけれど、できれば利益をあげていただきたいと心から思う。
 
リトル・ガリヴァー社の編集さんとの出会いは、緋野晴子にとって大きなものだった。この出会いがなかったら、2冊の出版は無かったろうと思う。感謝している。
 

遠隔操作透視の目?・・小説「青い鳥のロンド」レヴュー

緋野のブロ友、池ちゃんの「辛口レヴュー」から、ぼーちゃんが、緋野晴子の小説「青い鳥のロンド」に興味を持ってくださって、Amazonで購入してレヴューを書いてくださいました。有難いことです。
 
いただいたお言葉を、ここに掲載させていただきます。(セイラというのは緋野のブログネームです)
 
 
 
セイラさん、読ませていただきましたよ『青い鳥のロンド』 セイラさんのブログ友の池ちゃんのレヴュー記事の中の『何とつまらない物語だろう』との表現が妙に気になり、私はどんなふうに感じるのか、どうしても読んでみたくなったのです・・・
 
読み始めてまず感じたことは、ほんとだわ 池ちゃんがおっしゃられるように・・・ごめんなさい つまらないお話・・
 
と思った理由は、四人のお話の話題・・・『勝ち組』 とか 『負け組』 とか私の嫌いな言葉ですし、それにお話の内容も、このお話ってセイラさんの自分史?
みたいに感じて、なんだかなぁ~って思いながら読み進んでいったのです。
 
ところが読み進めていくうちに・・・ん? セイラさん! もしかして、遠隔操作透視の目とやらで私の心の中を覗き見してませんか? 
と思われるほど、そうなのよ・・・ホント・・そうなのよねっ・・と、現実と物語がうまく入り混じってるような不思議なその世界に引き込まれている私がいたのです。
 
物語の後半からぐいぐいと引き込まれて、読み終わった後は、最初に感じた、何だかなぁ~と思ったお話も、生きてる内容に感じられ、何かしら一体感みたいなものが残っておりました。
 
本を読んで初めて感じた体験でした。
 
それと、セイラさんのあとがきも、今どきの、社会情勢をしっかりと見つめられて、感じてらっしゃる感性に心惹かれました。
 
青い鳥は自分の心の中にあると思います   幸せは心の持ち方で感じるものではないでしょうか? 辛いという字に一を足すと幸せという字になるように、たったひとつの見方を変えたら・・
 
 
ぼーちゃん、主題に迫るご感想、ありがとうございました。
どうやら 「見方を変える」 というところに幸せのヒントがありそうですね。
また、作者と読者の間に生まれる一体感とは、作者冥利に尽きるお言葉です。 重ねてありがとうございます。
ぼーちゃんと、ぼーちゃんに出会わせてくれた池ちゃんに、感謝!

 

 

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小説の森で - 8.小説の命

 菊池寛がこう言ったことがあります。

 「作品がうまいと思いながら心を打たれない、まずいと思いながら心を打たれることがある」と。その言葉に接した時、それは結局どちらも優れた小説とは言えないということだと、私まず思ったのですが、それだけでは片付けられないような、ひっかかるものが感じられて、ずっと心に残っていました。

 

 菊池は、芸術的価値を重視する文壇文学に対して、小説はもっと実人生と密接に交渉すべきだと、内容の生活的価値の重視を主張しました。そこで頭に浮かんでくるのは、もうひとりのテーマ小説の書き手である芥川龍之介です。

  芥川こそ、まさに芸術的価値を重視する作家でした。私は彼の羅生門を読むと今でも惚れ惚れて、ああ、一作でいいから、こんな完璧な芸術品を作り上げてみたいものだと思ったりします。

 けれど菊池の言うとおり、その感動の主体はどうも、「上手い!」ということや、「場面の凄まじい美」にあるのであって、テーマの投げかけている主張は理解できるものの、なぜかその点に心を揺さぶられる感じがしないのです。

 

 生活的価値を重視した菊池は、社会性のある素材を、簡潔平明な文体で、くだくだしい心理性格解剖などに道草することなく、現実的・常識的・具体的な思考をもって、読者が直ちに興味の中心に入れるような小説を書きました。彼の小説は大衆の心を掴み、文学大衆化の先駆けとなったのです

 

 けれど、菊池の作品もまた、真に「心を打たれる」と言えるだろうか? と、私には ? がつくのでした。志賀直哉の作品と読み比べてみてください。違いが分かると思います。

  あれから何年、何十年もの時が経って、緋野は読む人間から書く人間に変わり、ようやく分かりました。小説でも何でも、文学作品にとってもっとも大切なのは、そこに作家自身の生きた血が通っているかどうかということだと。私小説という意味ではありません。作家の魂がそこに生きていて、切ればどこかから作家自身の熱い血が流れ出してくるようなもの、ということです。

  それが小説の命です。

 

 そう思って故人の言葉を思い出してみると、その意味することが、とてもよく分かります。鴎外は、「どんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思ふ」と言い、漱石は、「徹頭徹尾、自己と終始し得ない芸術は、空疎な芸術である」と表現し、ボーボワールは、「文学は読者が作者の肉声を聞きとる瞬間に始まる」と言いました。みんな同じことを言っていたのです。

Amazonにいただいた「青い鳥のロンド」レヴュー

自著の売れ行き調べのついでに Amazon を覗いてみましたら、まあ、嬉しい! どなたかが

レヴューを載せてくださいました。 しかも、☆ 5つ! 

こういうものってきっと友達とか身内だろうと思われがちですが、正直、私の知らない方です。

(? 私が知らないだけで、ひょっとしたら予約者さんのうちのどなたかかもしれませんけれ

 ど、私のところに、「載せたよ」という連絡は来ていません)




     男性こそ読んでください   というタイトルです。

家庭と仕事の間で揺れる30歳の既婚女性4人。

仕事にかける思いがある。家庭に対する思いがある。

そんな彼女たちの4者4様の悩みは今を生きる共働き夫婦のひとつの姿だと感じ

ました。 私は未婚ですが、彼女たちが抱える仕事の悩みには共感するものがあ

りました。同世代の家庭をもつ女性、働く女性はもちろんですが、家庭のある男

性にも是非読んでもらいたい一冊です。



カスタマー さんとありましたので、やっぱり Amazon で買ってくださった方でしょうか?

私は自分の小説へのレヴューを集めて大切にしていますので、Amazon 掲載のものも、

このブログにいただいておきます。Amazon で公開されているのですから、いいですよね? 

もし Amazon からクレームが来るようでしたら、すぐに削除いたします。

お名前が分からなくて残念ですが、カスタマー さん、ありがとうございました。

緋野晴子著「青い鳥のロンド」え!売り切れ?!

 

小説「青い鳥のロンド」の出版から、あっという間に一か月以上も過ぎていまし

た。心に引っかかっていた考えたくない疑問 (売れているのかな?) に向き合

うべく、本を平積みにしていただいた、いくつかの書店をそっと覗いてみました。

すると、早くも店頭から消えている書店、まだ置かれているけれども売れていな

い書店、ほんの少し売れただけの書店、総じて厳しい現実に、また心が萎えそう

になるのでした。

 

ところがそんな中、最後に行った書店で、自分の目を疑う光景に出会いました。

え! 売り切れ?  って、これ、夢じゃないよね??? と思わず目をこ

すってしまいました。

 お店の方に許可をいただいて撮ってきたのが、この写真です。

 

イメージ 1

 

ね、夢じゃないでしょう? 皆様もびっくりですよね。

しかも、上にあるのは何かの大賞受賞作、その隣はNHKのドラマ化作、目を下

に戻せば右隣は45万部突破作、左隣にはなんと、かの有名な芥川賞作家のお顔

があるじゃありませんか! そう、「劇場」の隣です。

まあ! まあ! よくぞこんな場所に緋野晴子の「青い鳥のロンド」を置いてく

ださったものです! 

しかもこんなに大きな広告ビラまで作ってくださって! 感激以外のなにもので

もありません。

 

この書店がこうまでしてくださった理由を考えてみました。写真の下の方をご覧

になれば分かると思いますが、1つは緋野の在住地に近いということでしょう。

この書店さんは、東三河地方にある某書店です。そしてもう一つはやはり、書店

回りをした時の、緋野の小説内容の説明に感じていただけるものがあったからだ

ろうと思います。

 

それにしても考えさせられたことは、本が売れるか売れないかということは、ま

ずは内容の良し悪しよりも、書店さんの売り方如何にかかっているのだなという

ことです。

同じ平積みでも、平積み本が無造作にきちきちに詰めて並べられているところで

は、緋野の本は売れていませんでした。

(せっかくの帯のキャッチコピーも、白字で読めない状態でしたしね)

対して、大きな広告ビラがついて、良い場所に置いていただければ、売り切れに

なるのですから。

 

 小説は最後まで読んでみなければ良し悪しの分からない商品ですから、まずは興

味を惹くことが肝心なのだと、これは創作におけるタイトルや書き出し、製本段

階における装丁デザインやキャッチコピーにも通じることだと思いました。

(もちろん、大きく売れていくには、内容に大衆の心を掴むものがなければならな

いでしょうけれど)

その点、今回の出版には、いろいろ反省点があったように思います。

 

 ともあれ、売り切れ は有難い出来事でした。

いろいろなハプニングがあり、出版全体を通じて萎えがちだった心が、この一事

で、ピーンと元気になりました。 

 

 書店さん、ありがとうございました。

「青い鳥のロンド」に辛口レヴューをいただきました

ブログの友人 池ちゃん が、緋野晴子著「青い鳥のロンド」にレヴューを書いてくださったというので、喜んで見に行きました。   すると・・・え?


「なんてつまらない話なのだろう」 ですって? ムムムム・・・辛口。 ・・・・?  辛口・・・?  え?

どんなレヴューでも読者さんからいただいたレヴューは緋野の宝物。 池ちゃんのお許しを得て、こちらにそのまま掲載させていただくことにしました。

 

       

 

この本は、先日ブロ友であるセイラさんが出版された、「たった一つの抱擁」「沙羅と明日香の夏」に続く3冊目の作品です。


       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ほんとうに幸せなのは誰なのか?
幸せの条件とは何か? 青い鳥はいるのか?
就職氷河期の中でなんとか思いどおりの道を切り開き、仕事も結婚も手に入れた4人の勝ち組女たち。
夢を追う菜摘子を取り巻く人々、ある日忽然と現れた栄の魔女と夢子さん。
30歳を迎えた彼女たちを待っていたものは・・・。
今を生きる男女に、幸福の真の意味を問う現代小説。(舞台は名古屋市 栄)

                             
あなたは青い鳥が見えますか? 
「一番好きだった人と、幸せの奪い合いをしている」菜摘子
「心の震えは何物にも代え難いわ。ああ、生きているって思う」百音
「他の人たちにも何か不幸があったらいいのに……」夢子
「何だかんだ言っても、私たちはそれでも勝ち組なのよね」翔子
「オマエは空っぽだって、喉の奥から嫌な声を出して笑うの」麗
「フッ、フッ、夢は掴んだとたんに消えてなくなるシャボン玉」 栄の魔女
「暗闇の中で、君と僕のことを想って泣いた」 護 
今を生きる男女に、幸福の真の意味を問う。

2017年5月30日発売
「青い鳥のロンド」 緋野晴子著(リトル・ガリヴァー社)1,296円

詳しくはヤフーブログ「明日につづく文学」をご覧ください

https://blogs.yahoo.co.jp/sailoringalaxy/40980799.html



 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

トーリーとは全く関係ない話ではあるが…。

「なんてつまらない話なのだろう」
57歳の男である私にとって、その内容は興味をそそるものでは無かった。恐らくは、この世の男、さらに年齢を重ねれば重ねる程に同じ印象を受けるであろうし、仕事から帰った時にこのような内容を妻が話したならば、右から左へ聞き流すか、あるいは耳の痛い話に「明日にしてくれ」と逃げるに違いない。

しかし、しかしである。
この本を女性が読んだら共感し、色々な感情が渦巻くのではないか。
男にとっては"どうでもよい話"であっても女性は違う。幸せの色も形も男と女では全く違うのだ。
例えば、他人と自分を照らし合わせるという"男にとってくだらない事"も、女性には"とても重要な事"であったりする。
また、「それでじゅうぶん満足じゃないか」という男の感覚も、「それはそうだけど」という、また別の"満たされぬ何か"が女性にはあったりする。
特別に何か不満があるわけではない、問題があるわけでもない。でも…。ただ…。
この漠然とした小さな感覚の相違が日常で繰り返されるうちに、妻は夫に対して「理解されていない」という不満が積みあがるのではないだろうか。

主人公は様々な個性の友人・女性に対し、パッと見は大きく感情を動かされることなく対峙する。
きっと男はこう思うだろう。「別に何も感じてないんじゃない?」
本当にそうなのだろうか。
おだやかに会話する心の奥底で、静かに様々な感情が渦巻いているのではないだろうか。
嫉妬、羨望、後悔。時には不愉快、鬱陶しさ、違和感、恨み、もどかしさ、嫌悪感、心の隔たり。
男には全く読み取れないが、女性はそれを嗅覚的に読み取り、敏感に反応するのであろう。

ところで、表紙の"青い鳥"が半分空に同化して鮮明に見えないのは諷喩なのだろうか。
プラトンならこう言うかもしれない。
「結局は"青い鳥"など存在しない。心の鏡であり、その時の自分を映し出す。見つけたと思った瞬間から形を変え、また新たな"青い鳥"が空を舞う。故に人は永遠に青い鳥を探すのだ」
主人公は青い鳥を見つける事が出来たのか、あるいは見つけられなかったのか。
見つけたと思った青い鳥は本当の青い鳥なのだろうか。ゆえにその色がはっきりと見えないのだろうか。
様々な人生においての"青い鳥"。私の悪い癖、深読みでしょうかね…。

この本では日常の風景が美しく描かれ、スムーズに物語が流れます。
冒頭に書いたように「つまらない」と感じる男こそ、この本を読むべきでしょう。
放棄したくなるタイプの男は女性の心理が分からず、いつの間にかパートナーの心が離れてしまっているかもしれません。「まさか」は自覚が無い所から発生するのですから。
この本を読み、何気ない会話から女性は何を感じるのか"女性の本質"を感じ取りましょう。頭の良い方であればきっと分かるはずです。
そして理解してからまた読み直すと、複雑で複合的な感覚や心理も読み取れるでしょう。
すると、、、。
知らぬ間に心が離れそうになっていたパートナーの思いが分かり、危機を脱することもあるかもしれません。
でも、もしあなたが女性なら、何も考えずに共感できる一冊です!


 

この小説は、いわゆる感動ものではありません。ストーリーとは関係ないこと(自分のことなど)をいろいろ考えたくなるのが、この作品の特徴のようです。実に様々な感想が私の元に届いています。
男性、特に年配の方のご感想はどうも芳しくありませんね。男性にとっては心理的体験のない話であり、自分には関係ないと感じられるからでしょうか。妻が夫と無関係ではあり得ないように、男性にとっても実は無関係な話ではないのですけれどね。
逆に、30代~50代の女性には、たいへん深刻に受け止められています。「仕事・夫・家庭とどう向き合うかは、待ったなしの問題です」と。

それにしても、こんなにきっぱりと男女の評が割れるとは・・・。

人口の半分である女性にとって深刻な人生問題が、男性にとってはどうでもよい、つまらない話と捉えられるところに、この国の抱えている根深い闇があると、今回の小説に寄せられてくるレヴューを通して、改めてそう思いました。

 

それにしても池ちゃん、共感できる心理体験のない作品に、よくこれだけたくさん書いてくださったものです。
ありがとうございました。

小説の森で - 7.小説の面白さ

「青い鳥のロンド」の出版で日々が慌ただしく過ぎ、はや一箇月にもなる。出版というのはいつも、いやな疲れを伴うものだ。それはたぶん、物書きとしての本来の努力とは違う努力を強いられるからだろう。それが長く続くと、私はいったい何をやっているんだろう? という、一種の鬱気分になる。だからきょうは少し小説の森に戻って、心を休めてこようと思う。

 

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  小説の森に朝陽が差しこんで、木々の梢に溜まった白露が美しく輝いている。それぞれの作家の魂のようだ。ああ、やっぱりここはいい。もしもこの森がなかったならば、人生はどんなに味気なく孤独なものだったろうか。この異形の森はまた、魂の救いの森でもあるのだ。

 

 人々が小説を好んで読むのは、そこに「面白さ」というものがあるからだろう。けれど、それがどんな面白さかは、一言で括れるものではない。「青い鳥のロンド」への読者評の違いの大きさを見るにつけ、そのことを考えざるを得ない。きょうはそのあたりを紐解いてみることにしよう。

小説の面白さというものを、いくつかあげてみる。

 

  1.共感・癒しの面白さ

  人は本来的に孤独な生き物で、独りが辛くて寂しいものだから、登場人物や小説世界に共感できるということはとても嬉しいことで、「自分だけではない」と感じることが面白さにつながる。緋野の知人には、小説に「救われた」と言う人もいた。太宰治村上春樹のような、時代や世代の心性を代表したような作品がよく売れるのは、こういう面白さがあるためだろう。

 

 2.未体験の世界への興味

  例えば古いところでは、広津柳浪『黒蜥蜴』。平凡な生活においては理解しがたい、特異な人間の心理を解釈してみせる小説。湊かなえの『告白』などもここに入るだろうか。

そこまで特異でなくとも、数ある私小説や伝記的小説、ファンタジー、歴史物など、ほとんどの小説が持っている基本的な面白さはこれだろうと思う。その程度に違いがあるだけだ。

 

 3.詩的(美的)世界への陶酔とカタルシス

  小説は言葉を使った美術品であり、芸術によるカタルシスを旨とする、という明確な価値意識を持った作品群がある。元祖は森鴎外さん。『舞姫』以下の三部作がそれだ。近年では宮本輝の『泥の河』なども、鴎外の浪漫とは趣きが異なるけれども、やはりこの系列に属すると思う。

これらの作品の特徴は、もう圧倒的に悲劇であることが多いということだ。人は悲しみの多い生き物で、悲劇的な詩情に陶酔することには、自己の悲しみを和らげる作用がある。

 

 4.精神への刺激の面白さ

  小説世界が投げかけてくるものによって読者の精神の均衡が乱され、思わず自己や世界やその関係を見つめなおしたくなるという面白さ。芸術的なところでは深沢七郎楢山節考』、近年では川上未映子『ヘヴン』などがそれに当たるだろうか。あとは、芥川龍之介豊島与志雄菊池寛など、新赤門派と呼ばれた人たちのテーマ小説がそれだろう。

 

 5.ストーリーのうねりの面白さ

  物語の複雑さと言い換えてもいいかもしれない。入り組んだ人間関係や波乱万丈の面白さだ。代表選手は、それはもうなんと言っても谷崎潤一郎だろう。「細雪」などそれしかない小説だと思うけれども、人は結局、そういう世間のごたごた話が好きなのだ。それが洗練された文体で書かれているから、ついつい読まされてしまう。職人的なもの書きだと思う。

  そういえば、谷崎と芥川との間で論争になったことがあった。谷崎が『饒舌録』の中で創作について、「嘘のことでないと面白くない。素直なものよりヒネクレタもの、無邪気なものより有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好く」と書いているのに対し、芥川は谷崎を、奇抜な筋にとらわれすぎると批判し、『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、「小説の価値は話の長短や奇抜さで決まるものではない。・・・肝心なのは、その材料を生かす為の詩的精神の如何、深浅である。話らしい話のない小説は、あらゆる小説中、最も詩に近い小説である。最も純粋な小説である」と言っていた。私は芥川のいう詩的小説のほうが好きだが、さて、一般読者はどう感じるだろうか。

 ともあれ、ストーリーのうねりの持つ面白さを否定することはできないだろう。

 

 6.謎解きの面白さ

  謎というのはどうしても知りたくなるのが人間で、そのために次々とページをめくることになる。言うまでもなく推理小説・探偵小説の面白さはそれだ。これらの主眼は謎解きや推理だから、文学からは最も遠い小説だろう。最近は謎解きと人生観照を兼ねた中間的な小説が増えたようだけれども、謎解き・推理の比重のほうが高いければ、それらはやはり詩(芸術)にはならない。

 ちなみに私は、解かれないままに残る小さな謎というものが好きだ。この世界そのものが謎に満ちているように、解かれずに残る謎は、小説世界の奥行きを広げてくれるように思う。

 

 7.現実への興味

  山崎豊子さんと言えば、誰もが、ああ確かにと、理解するのではないだろうか。彼女の小説を、私はそれこそむさぼるように読んだ。そして、もっとも面白い小説は、もっとも現実に近い小説だという思いを強くした。しっかりした取材に裏打ちされたノンフィクション的小説には迫力がある。目に見える事実の奥に隠されている膨大な真実が、小説世界を通して手にとるように分かるというのは、とても面白いものだ。

 ただし、取材した事実に比重がかかりすぎると、それは小説にはならない。山崎さんの小説にも正直なところその傾向は感じている。『沈まぬ太陽』を読んだ時、彼女は小説家というよりも、基本的に記者なのだと思った。小説としては物足りないものがある。

 

 8.奇抜性・意外性への興味

 「夜は短し歩けよ乙女」という変わった小説が賞を取ったことがあった。奇想天外なありえない話と、単純なことをいちいち大仰に表現する、まるで大学生の言葉遊びを思い出させるような奇抜な文体で、500枚も書き抜いたあの饒舌には脱帽する。もちろん、奇抜だっただけではない。青春と言う馬鹿げた季節の面白みの中に、誰にも覚えのある恋の純情が、胸に届く作品だった。

 けれど、何ということもないテーマで、普通に書けば、きっと注目されなかったことだろう。話や表現の奇抜さを、人はやはり面白いと思うのだ。ラストのどんでん返しの手法なども、これに入るだろう。

 近年の小説はどんどんこの方向に傾いているような気がするが、私は、これは新しいというより復古だなと思って眺めている。江戸時代の南総里見八犬伝のような、戯作の方向だ。商業主義時代の小説大衆化は、結局ここに行き着くのだろうか。

 

9.作家その人への興味

    その作家の感性・思考内容に刺激され、そこに面白みを感じるという、エッセイ小説などがその一つだろう。夏目漱石や、現代では万城目学さんの小説などもそれに当たるかもしれない。こうした、作者の主観を盛り込んだ小説は、武者小路が漱石の作品について指摘したように、読者が出来事から直接受ける主観より作者の主観のほうが優れている、もしくは特殊である場合にのみ成立する書き方である。作家その人の内面の魅力に負うところが大きく、底の浅い者がまねをして書いたり、主観の織り込み所を誤ったりすれば、読むに耐えないものになることだろう。

  また日本文学の伝統であった私小説も、あれだけ読まれてきた大きな動機は、作家その人への興味だったのではないかと思う。かの時代の小説家たちには、己の事実を隠すことなく、大胆に、ありのままに、技巧を弄せず描くという、腹の据わったところがあった。岩野泡鳴などは、自己の生活そのものが芸術であるとまで言いきっている。けれど、作家たちは真剣に芸術だと思っていたようだけれども、これは読む側からすれば、人の生活の実態を覗くということであって、実はスキャンダル的な興味が大きかったのではないかと、私はひそかに思っている。

 それにしても、『兎にも角にもこれが人間現在の実情だ』と、我が身の真実を臆せずぶつける私小説。その振り回す鉄棒の打撃力には、震撼せざるを得ない。事実の重みが強烈に迫ってくる、恐るべき小説だ。

 ただ、それは一方で、誰かを傷つけることがあるかもしれない小説で、緋野晴子には一生書けそうもない。

 

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  ということで、小説の面白さの要素を挙げてみたが、まだまだ他にもあるかもしれない。大衆小説や中間小説の木々が乱立しているこの森に、文学の樹を探す、あるいは植えようとする時、それが読まれる文学であるためには、これらの面白さを文学の中にどう織り込んでいけばいいのか、それが私のもっとも悩むところだ。

ともあれ、きょうは久しぶりに自分の場所に戻ってきたような気がして気分がいい。少しエネルギーが蘇ってきた。そうだ、小説は読まれるために書かれるのだから、「青い鳥のロンド」は、その読者さんたちの手に届けられなければならない。もう少し頑張ろう。