小説の森で - 8.小説の命

 菊池寛がこう言ったことがあります。

 「作品がうまいと思いながら心を打たれない、まずいと思いながら心を打たれることがある」と。その言葉に接した時、それは結局どちらも優れた小説とは言えないということだと、私まず思ったのですが、それだけでは片付けられないような、ひっかかるものが感じられて、ずっと心に残っていました。

 

 菊池は、芸術的価値を重視する文壇文学に対して、小説はもっと実人生と密接に交渉すべきだと、内容の生活的価値の重視を主張しました。そこで頭に浮かんでくるのは、もうひとりのテーマ小説の書き手である芥川龍之介です。

  芥川こそ、まさに芸術的価値を重視する作家でした。私は彼の羅生門を読むと今でも惚れ惚れて、ああ、一作でいいから、こんな完璧な芸術品を作り上げてみたいものだと思ったりします。

 けれど菊池の言うとおり、その感動の主体はどうも、「上手い!」ということや、「場面の凄まじい美」にあるのであって、テーマの投げかけている主張は理解できるものの、なぜかその点に心を揺さぶられる感じがしないのです。

 

 生活的価値を重視した菊池は、社会性のある素材を、簡潔平明な文体で、くだくだしい心理性格解剖などに道草することなく、現実的・常識的・具体的な思考をもって、読者が直ちに興味の中心に入れるような小説を書きました。彼の小説は大衆の心を掴み、文学大衆化の先駆けとなったのです

 

 けれど、菊池の作品もまた、真に「心を打たれる」と言えるだろうか? と、私には ? がつくのでした。志賀直哉の作品と読み比べてみてください。違いが分かると思います。

  あれから何年、何十年もの時が経って、緋野は読む人間から書く人間に変わり、ようやく分かりました。小説でも何でも、文学作品にとってもっとも大切なのは、そこに作家自身の生きた血が通っているかどうかということだと。私小説という意味ではありません。作家の魂がそこに生きていて、切ればどこかから作家自身の熱い血が流れ出してくるようなもの、ということです。

  それが小説の命です。

 

 そう思って故人の言葉を思い出してみると、その意味することが、とてもよく分かります。鴎外は、「どんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思ふ」と言い、漱石は、「徹頭徹尾、自己と終始し得ない芸術は、空疎な芸術である」と表現し、ボーボワールは、「文学は読者が作者の肉声を聞きとる瞬間に始まる」と言いました。みんな同じことを言っていたのです。