滅びの美

 秋もずいぶん深まって、朝晩の気温が急激に下がるようになると、植物はそこかしこで色づき始める。京都の紅葉のあでやかさは殊更だけれども、そうまで雅でなくても、名もない里山にも天然の錦は見られる。イチョウにハゼ、ハナミズキニシキギ、マンサク、ドウダンツツジ、カツラ……ソメイヨシノも、実は、花を見るだけの木ではない。

また、葉に限らず、クサギゴンズイムラサキシキブ、サンザシ、サネカズラ、カラスウリなど、多くの草木の実も、風景に彩を添えてくれる。

花の少ない時期だけに人々の目を惹き、庭や野山が色とりどりに染まる盛りは、錦秋などという華やかな呼ばれかたで愛されている。

 だが、ほんとうのことを言えば、その錦は滅びの姿に他ならない。厳しい冬を前に、今年の葉や実は、その役目を終えて朽ちていくのだ。木そのものの命は残り、実の中の種が命を継ぐとはいっても、次の年に芽吹くものは、もはや今年のそれではない。

植物が滅びの直前に見せるあでやかさは、私の眼には、命の執念のように映る。すべての植物が色づくわけではなく、むしろ、昨日から今日へと続いてきたように、少しずつ乾いて、縮れて、静かに枯れていくもののほうがずっと多い。どう終わるかはそれぞれで、どの終わりかたが素晴らしいと言えるようなものではないが、その中で、いくつかのものは、滅びの運命に抗して命を燃やすかのように、最期に精一杯の色彩を放つのだ。

耳をそばだてれば、「ただ朽ち果ててなるものか」という、彼らの声が聞こえてくるような気がする。

「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」と詠んだ人がいる。その真意は定かではないが、そこには、自分がここに生きたことの証、まだ生きていることの証を、最期まで示すのだという執念が感じられる。そいうものが、私は好きだ。

終わりを迎えるのは、ひとり植物だけではない。人間とて同じことで、ついの終わりも来れば、日々、一日の終わりを繰り返してもいる。

私は、日の出の美しさにも日没の美しさにも惹かれるが、いつの頃からか、おそらく歳のせいだろうと思うけれど、日没のほうに、より共感的に心が動くようになった。それも一つの滅びの美だ。分けても、西の空が朱を流したように色づき、見渡す限りの風景がすっぽりと赤く染まっているような夕暮れ時は、えも言われぬ感情に胸が塞がる。と同時に、どこか体の奥底から滲みだして来る、得体の知れない熱いものに浸されていくのだ。

いつだったか、ある秋に、岐阜の田舎の、そのあたりでは紅葉で名の知れたお寺へ行ったことがある。小さなお寺で、周りはほとんど何も無い原野だった。夕方になって帰ろうとすると、素晴らしい夕焼けが広がり、野山の隅々までが赤く染まった。門前にあったモミジとイチョウの大木は夕陽に透けて、まるで木霊が燃えているかのようで、その美の饗宴に、ほとんど狂気に近い感動が押し寄せてきたのだった。人生の折り返し地点を、いくらか過ぎた頃だった。

私のノートには、そのときに書いた、一つのつたない詩がある。

 

    緋野に立つ

 

  空が燃える

  森が燃える

  野原が燃える

  胸に残るいくばくかの傷みと

  哀しみと 悲しみ

  数々の後悔と わずかな誇り

  尽きせぬ情熱と 明日への執着

  すべてを飲み込んで

  陽が燃える

  赤い 赤い

  陽が燃える

  燃える 燃える

  緋野に立つ

 

 詩人と呼ばれる人たちに見られたら恥ずかしいようなものだけれど、これが、私が小説を書き始める心理的動機となった詩であり、筆名の由来でもある。(緋野晴子)