小説の森で - 3.読み物と文学の境界

純文学小説、大衆小説、中間小説歴史小説、ノンフィクション小説、推理小説

探偵小説、SF小説、ファンタジー小説、恋愛小説、冒険小説、童話小説、大人

向け童話小説、ライトノベル・・・・実に多くの小説らしきものが氾濫している現

代。この中で、純文学という形容詞を付された小説と、それ以外の小説とを分け

る要素はどこにあるのだろうか?

 
この異形の森で「文学」の樹を探そうとする時、きちんと押さえておかなければな

らないことはたぶん、たった二つなのだ。


 一つには、書く側に、少し大げさな言い方をするなら、哲学的とも言えるような

意図があるということ。誰かがそれを読んだ時、その意図が読む者の内面を揺さぶ

り、自身の人間観・世界観を見直したくなるような何かを備えているということ。

ただし、この場合の意図とは「読者に対する働きかけ」 という意味ではない。小説

を書くこと自体が一種の働きかけではあるのだけれども、その前に、作者の意図

の本質とは、自分自身が何かを見極めたいという「内向きの意図」にあるものだ。

その作者の視線が、結果的に読者の内面に働きかけることになるという、そうい

う意味での意図 だ。


 二つめに、それは日常生活に使われる実用文であってはならないということ。

作者の意図を表現するといっても、説明文であっては「小説」とは呼べない。

非常にすぐれた説明文が、知性と情動に働きかけて人を動かす「文学」足り得

ることはあると思う。けれども、人に何かの間接体験をさせることはできない。

読者が小説世界に入りこんで、魂がその世界を体験すること、その体験的理解

にこそ小説の本分がある。であれば、小説は日常とは異なる意図的世界を、実

用表現とは異なった表現で描かなければならない。そこで、言葉の使い方や、文

章表現や、構成における芸、すなわち「小説的文芸」が必要になってくるわけだ。

そしてその芸が、「美術」の域にまで達しているものだけが、文学という冠を付さ

れる資格を持つ。文学作品における作者の意図とは、その文芸によってのみ、余す

ところなく表現できるようなものだということなのだから。


 これら二つのどちらかを欠いていれば、すでに文学とは呼べない。また、意図は

あれども深からず、芸はあれども美術足り得ず、といった作品は中間小説と呼ば

れているらしいが、現代日本の文学界は、この中間小説が主流になっているかに

見える。巷は、もちろん、文学とは無縁な大衆文芸の洪水だ。


 私はこれでも一応、文学を志向して小説を書いている。文学的動機(意図)はあ

る。けれども、それがなかなかうまく書けない。美術の域まではとても、とても、

・・・。

ああ・・・最近、溜め息ばかりが出てくる。飲めば「文芸」が磨かれるという、神

秘の泉はどこかにないものだろうか? 森の木霊に尋ねてみようか。