小説の森で考える ー 誰に向かって書くのか?

 これまでに四冊の小説を出版し、今、五作目の原稿を書き上げた。このあたりで少し立ち止まって、自分の小説について考えてみたいと思う。

 比較的売れた作品もあれば、売れなかった作品もある。その違いはどこにあったのだろうか? 私のようなメジャーな賞をとっていない著者の場合には、第一に、タイトルや装丁が人々の気を引くものであったか、帯にどなたかの推薦文があったか、等の要素が大きいとは思うけれど、そこを問題にしても著者としては意味がない。顧みるべきは、読者の反応だ。

「沙羅と明日香の夏」は、広範な読者に共感され、愛される小説だった。対して、「青い鳥のロンド」は、感想にずいぶん差があった。女性、特に職業を持った女性たちには絶賛され、男性たちの反応は概して鈍かった。それは、恐らくこの小説が、女性の心理を主として描かれていたからだろうと思う。私としては男性を含めた幸福を追求したのであって、男と女で成り立つ世界の未来を志向するためのものだった。けっして、女性の不幸を訴えるというような偏狭なものではなかったのだが……。この反応の差こそが、つまりは今の社会の現実なのだと再確認することになった。

 男性には、共感できる心理的体験がないのだと思う。のみならず、共感したくないという心理の働く男性も少なくないのだろう。真の幸福を求める女性の心理は、男性にとっては関心の薄い、あるいは耳の痛い、ひいては都合の悪いものでさえあるかもしれない。そうした前提のある時点で、この小説はすでに読者の半分を失っていたと考えられる。「青い鳥のロンド」は、初めから読者を選ぶ小説だったということなのだ。

 小説が読者を選ぶ・・・そこで私が考えてしまうのは、「私は誰に向かって書いたのだったろう?」ということだ。

 小説は独白ではない。独白なら大学ノートにでも書きつけておけばいい。小説を書くということは、現実そのものとは別の、意図的な世界を創り出すということで、なぜそうするかと言えば、そこに誰かを(読者)を招き入れたいからである。

  私は、この混沌とした世界の中から、自分だけが感じ取った主観的な世界を、一枚の透明なスクリーンのように漉しとって、小説という文章の中に展開する。自分というフィルターを通して整理・象徴された世界の中に生きてみようとするのだ。だから、最初にそこに招き入れられるのは、自分自身ということになる。けれども、それだけでは終わらない。描かれた世界は独白と違って、必ず他の、より多くの訪問者を求めるもので、それは、「誰かの魂と繋がりたい」「自分の眼が漉しとった世界を、共に眺めてくれる人が欲しい」という、小説を書く人間に共通した根本的な欲望からくる。

 それならば、その訪問者は誰でもいいのだろうか? 多ければ多いほど? 

 確かに門戸はすべての人に向かって開いている。「青い鳥のロンド」の場合で言えば、女性はもちろん、男性たちにも広く読んでもらい、人としての幸福・家族の幸福・人間社会の将来について、共に考えてもらいたかった。

 それでも、よくよく心の奥を探ってみると、結局のところ、私がほんとうに自分の世界に招き入れたいと望んでいたのは、自分に似た魂を持つ誰かだったのだということに気がつく。私は、男性でも女性でも、どの世代の人でもいいから、とにかく魂の通う相手を探していたのだと。だから、多くの男性たちの反応が鈍くても、「私のために書かれた小説だと思った。自分の本当の幸せが何であるかが見えてきて、迷いがなくなった」という、ひとりの女性の感想を聞いて、十分に報われた気がしたものだ。それは他の小説書きの方々も、根本のところで同じではないだろうか。

 小説が不特定多数の、あるいは不特定少数の、魂の通う誰かを探しているものだとするなら、私としては、つまり、ひたすら自己の世界を芸術的に描き出すことだけに専念すればいいということになる。それは、とても有難いことだ。

  私は一時期、人に読んでもらうからには読者を意識しなければならない、多くの人に読んでもらうためには、そういうことに敏感であるべきでは? と思っていた時期があった。けれども、それは間違いだった。特定の読者層にアピールするように書こうと考え始めると、私の小説は、どんどん駄目になっていった。私にはそう感じられた。そもそも、他人にアピールするようにといっても、私はそれほど他人を知ってなどいないではないか。

 だから、書くときは、とにかく、徹底的に、自分自身を発信するほうがいい。そうすれば、小説が自ずと読者を選んでくれる。書き手は、その選ぶに任せればいいのだ。なべての人々の魂を呼び込む場合もあれば、片寄る場合もある。それでいいというのが、私の結論だ。

 ついでに言うなら、文学賞の求めるものを意識して書くというのも、私は邪道だと思う。文壇は、作家という職業を生業にしている人たちのギルド社会だから、そこで目を引くのは、新鮮な素材(現代性)・新しい技法・珍しい文体・斬新な構想・細工のかかったプロット等。でも、そこから入って捏ねくってみても、生きた小説にはならない気がする。読み慣れた人たちの興を喚起することはあっても、市中の誰かの魂を揺さぶるものにはならないだろう。あくまで、自分の内側から突き上げてくるものを、どう展開すれば小説世界の中に完璧に描けるか、そのための表現方法を探るべきなのだ。

 ただ、書き上げた作品について、どんな人が読者さんになってくれるだろうか? と考えてみることは大切だ。「沙羅と明日香の夏」を書いた時、私は中高生にも読めるようにと、漢字その他の表記にずいぶん気を配った。読者を想像してみて多少の表現を変更することは、自分の世界に人を招き入れる者として、当然必要なことだと思う。

  ところで、ここまで「小説」という言葉を自分勝手に使って書いてきたけれど、それは純文学を念頭に置いていたのであり、エンターテイメントを主眼とする小説となると、たぶん、この限りではない。もとより、どんな小説があってもいいわけで、実際に、現代小説の主流は、少し深いもののあるエンターテイメント系になっている気がする。私もその線に近づけて「時鳥たちの宴」を書いてみたりした。読者さんたちの反応は、たいへん良かった。だから、職業としての作家を目指す人たちから見れば、前述の私の論などは、売る気のないアマチュアの傲慢さに過ぎないのかもしれない。

 それでも、私はやはり傲慢に書いていこうと思う。「時鳥たちの宴」には面白いという評が多く集まったが、意図した核心部分はどれだけ響いていたろうか? 他の三作への感想とは、質的に明らかな違いがあった。

 魂の通う誰かに向けて、魂を込めたものを書く。むやみに多くの読者を望まないことにしよう。