大海に光る砂粒を投げる

文学小説を書いて発表するということは、まるで大海原に向かって、小さな砂粒を
投げ込むかのようなささやかな行為だけれども、ひとりの人間としての世界に対す
る存在証明なのだと思って書いてきましたが、その小さな砂粒を貝が拾って、それ
を核にして真珠を作ってくれることもあるようです。

 昨日、たまたまTVで教育系の番組を見て、はっとしました。そこでは「空気によ
るいじめ」が話し合われていたからです。
「空気によるいじめ」・・・ 6年前、私が「沙羅と明日香の夏」で取り上げたいじ
めの姿です。空気によるいじめは、いじめている側の自覚・罪悪感が非常に薄く、
現象としても見えにくいので、それと気づかれないまま深刻化し、自殺や引きこも
りの原因にもなっているようです。

 また、その「空気に流される」という現象は、単に子どもの世界だけのことではな
く、日本社会の現代病だと私は思っています。 年齢層によって幾分の違いはあ
るでしょうが、「空気を読む」ことが非常に大きな価値のように言われ、空気に逆
らう言動をする人が蔑視されたり疎外されたりするようになったのは、いったいい
つからだったのでしょうか? 少なくとも昭和の時代まではそうでもなかったように
思うのですが、気がついたら日本人はそうなってしまっていました。

特に若者たちは、言葉で自分の考えを伝え合うより、皆まで言わずに空気で会話
していると常々感じています。 
「これ良くね?」と聞き、「ああ」とか、「いいんじゃ

ね?」とか、「だよね」と答え、「思う」という言葉は使いません。
ことの善悪に関わらずリーダー的な存在が場の空気を決め、その空気に逆らうよ
うな言動は、周りの全員から「空気読めよ」のひと言で一蹴されてしまうのです。
他人との関係が希薄になり、他人に対して臆病かつ不寛容な社会が形成されて
いるようです。多様性は生物の大原則であり、生存のために欠かせない価値です。
それを認めることなしに人類の発展はありません。このまま、自分の考えがはっき
り言えない、追随型の人間ばかりが増えていけば、日本はどんどん衰退の一途を
辿っていくでしょう。

 「沙羅と明日香の夏」は、生きることに迷った若者たちの魂の再生を描いた青春
小説ですが、その中に出てくる「空気によるいじめ」に教育界の三人の先生方が
頷いてくださり、推薦してくださいました。また200人ほどの先生方が購入してくだ
さって、「空気によるいじめ」という私の投げた砂粒を受け止めてくださいました。
けれどもその後のことは分からず、「空気」の問題はどうなったのだろうと思ってい
ましたら、昨日の教育番組です。
「空気によるいじめ」の問題が正面から取り上げられ、議論されていました。人の
精神を圧迫するのは、特別な誰かの暴力や嫌がらせ等の直接行為だけではなく、
人を疎外し、いじめを傍観・許容する大衆の空気であることに、やっとメスが入れら
れ始めたのです。その大衆の精神構造を分析することは、やがていじめ問題を超
えて、日本人の弱さの分析と、日本社会の未来の展望へと進んでいくでしょう。
進んでいってほしいものだと思います。

 とにかく、ああ、やっとここまで来たかと思うと、しみじみ嬉しく感じられました。
 文学の掬い取れる真実はほんの小さなものです。その一作をこの世界に送り出
すことは、暗くうねる大海に光の砂粒を投げこむような、些細な抵抗かもしれませ
ん。それでも時には、どこかの貝が見つけてそれを核にして、真珠を作ってくれる

こともあるのですね。それを願って、私はまた書いていこうと思います。