小説の森で - 6.書くことの第一義

 自分はなぜ書くのだろう? と心の底に問うてみる。

 私は作品をひとつ仕上げるごとに、その分だけ自分の中が整理され軽くなって、

この世が生きやすく楽しいものになっていくように感じてはいないか? 書くこと

の第一義は、つまりここにあるような気がする。書く者たちはきっと、みんな自分

のために書いているのだ。それがどんな種類の小説であろうと、結局はそういうこ

となのだろうと思う。かの文豪、森鴎外さんも、「僕はどんな芸術品でも、自己弁

護(自己主張)でないものは無いやうに思ふ」と仰っていた。文学だけでなく、他

の芸術においてもそれは同じことなのかもしれない。

 緋野の場合は、ずっと昔に拾った課題を何十年も胸の底に抱えたまま、未解決の

ままに生きてきて、人生も下り坂に入った今頃になって、ようやく答えらしきもの

の姿がぼんやりと見え始めたように感じている。それが人生の折り返し地点で小説

を書き始めた理由だ。けれども、それを実際に小説の中に書き留めようとしてみる

と、答えは奇しくも茫洋と闇の中に霧散していくばかり。結局、小説を書くとは、

問うても問うても答えの出ない問いに、それでも答えを探し求める心の旅の、軌跡

を残すことなのだと思う。どこにどう辿り着くのか、その答えが未だ答えとは言え

ないようなものであっても、小説は私の中にひとつの足跡をつける。

その足跡を得ることによって、私は明日の一歩を探せるような気がするのだ。その

足跡の上に立って眺めてみれば、視界はきっと今よりもう少し開けてくるはず。

そう信じて一作、一作、難儀な旅を続けている。

 
 では、小説を書くことの第一義は自分のためにあるとして、次に自ずと生じてく

るのは、そうして自分のために書いた小説を、他人に読んでもらいたいというのは

いったい如何なる心理か? という疑問になる。

 つらつら考えてみると、それは結局のところ単純に、自分が描いた、自分だけが

見ている世界を、他の誰かにも一緒に見て欲しいという、ただそれだけに過ぎない

ような気がする。

 描かれた世界への共感やら感想やらは、実はたいした問題ではないのだ。読者の

精神に何らかの波紋を引き起こすことができれば、もちろんいっそう嬉しいには違

いないだろうけれども、それ以前にまず、書いて発表する者の心理の根底にあるも

のは、自分の目が捉えているものを他の誰かにも見てもらいたいという、ただそれ

だけなのではないだろうか。それは人間というものの孤独が生む、宿命的な願望な

のだろう。小説に限らず文学というものは、人間の孤独から生まれ、他者との繋が

りを求めて存在しているのだと、緋野は思う。


 そして、そのように書かれた作者それぞれの小説は、ちょうど今、この小説の森

を彩っている木々の花たちのようなものだろうか。一つとして同じ花はなく、その

うちのどの花がいちばん好きか、美しく見えるか、愛しく感じられるかは、見る人

(読者)それぞれの心の在りようによって違うもので、けっして順位のつけられる

ものではない。これは詩歌の世界でも同様で、新聞の歌壇・俳壇を眺めてみればよ

く分かる。四人の選者が十首ずつ優れた作品を選んでいるが、複数の選者に重複し

て選ばれる作品は、四十首のうちせいぜい一首か二首。文学とはそういうものなの

だろうと思う。

 けれどもまた、一見すれば形のよく似た花たちでも、生気の漲っている花か、水

不足で活気のない花か、はたまた造花かは、誰もが等しく見抜く。文学とはまた、

そういうものでもある。


 と、そんなことをとりとめもなく考えているうちに、森はもうすっかり日暮れに

なってしまったようだ。熱い珈琲でもいただきながら、美しい夕日を眺めることに

しよう。