小説の森で - 5.小説という芸術

 さて、今回は、小説という芸術の特性について確認しておこう。

 小説という芸術の最も大きな特徴は、文字(言葉)という媒体を介さなければ、

どんな感覚も刺激されないということだろう。文字や言葉を知らない人にとって

は、その時点ですでに享受できない芸術なのだ。それはつまり、小説が初めか

ら鑑賞者(読者)を制限しているということ。

 このことは、自分が小説を書く時、その小説を誰に向かって書くのか、誰に読

んでもらいたいのか、に関わってくる重大な要素だと思う。私はそうした視点を

含めて言葉を選んで使っている。

「沙羅と明日香の夏」は読者対象を限定した作品ではないけれど、中高生にも

読めるものにしようという配慮をした。難しい言葉を使えば芸術的というもので

はない。なるべく分かりやすい言葉で詩的世界を構築すること、読者の感覚に

訴える表現を探すこと、が肝要だと思う。。


 次なる特徴は、作者の提出したものが、そのまま鑑賞者(読者)に伝わらない

ということだ。例えば、「生きていてよかった」と書いても、それがどういう文脈

の中に置かれているかはもちろん、読者自身がどんな心理体験を持っているかに

よっても、その響くニュアンスは変わってくる。軽いものか、喜びに満ちたもの

か、涙の出るようなものか、震えるものか・・・作者の声で書かれた世界は、読

者の声に変わって彼らの中に響く。

 鑑賞者の想像世界の自由度は、他の芸術に比べて圧倒的に大きく、ここが、

発信者の世界が鑑賞者の感覚にそのまま伝わる他の芸術との大きな差だろう。

サルトルもそのことを「読者の中には創造が潜む」「作者は作曲家。読者は演奏

者」と表現している。

 ということは、つまり作者を超える読者というものもありうるわけで、作者が読

者の感想に耳を傾ける意味もそこにあるだろうし、読者どうしで感想を述べ合う

意味もあるだろうと思う。一方通行の芸術でないところが、小説の面白いところ

だろうか。また、作者を超える読者を生むような小説こそが、真に芸術品である

とも言えるかもしれない。


 その第三は、小説ほど、描いていない部分で人を動かす芸術はないというこ

と。表現されている場面の向こうに、表現されていない読者自身の描く情景が

浮かんでくるような小説、描かれていない人物の細かい部分が自ずと目に浮

かぶような小説が、つまり芸術的な小説であろうと思う。

 読者はそういう自らの想像の蓄積を通して、その小説の提供している、(物語

的内容ではなく)世界像を、自らのものとして再構成して把握する。このことは、

書く側から言えば、描写は多すぎても少なすぎてもいけないということになるし、

想像を喚起するような表現をすべきということにもなる。すなわち、文の芸が必

要になってくるわけだ。


 最後に、無視できないこととして、小説という芸術は、読者に少なからず能動

的姿勢(苦労)を強いる、ということがある。受身で楽しめる他の芸術が氾濫し

ている現代、活字の芸術は衰退の一途を辿っていると言われている。けれども、

それは錯覚だろうと私は思う。小説が大量に売れるようになったのは、石原慎太

郎の「太陽の季節」が象徴するように、小説家が商業ジャーナリズムに乗っかる

ことによって読者が増大した、昭和30年代からの現象にすぎず、それ以前は大

家といえどもそんなに売れたわけではなく、小説家の生活は概して貧しいものだ

った。もともと鑑賞者を選ぶという、小説の宿命だろう。小説の真の読者は本来的

にそう多くはないし、多くなくてもいいのだと私は思っている。

 それでも小説というものは、他の芸術にはありえないほど、鑑賞者の内面に広く

深く干渉するものだと思う。そこに小説という芸術の持つ大きな力と可能性があ

る。だからいつの時代になっても、一定の読者は必ずいると私は信じている。


 小説という文学の持つ力については、後日また整理してみたい。