読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小説の森で - 1.異形の森

 文学の樹を探し求めて、小説の森に迷い込んでしまってから、早、12年が経

とうとしている。この森はなんと深いのだろう。直立した木に、くねった木、ご

つごつした木や、つるつるした木、スリムに佇む木もあれば、繁り放題の木もあ

って、その上この世ならぬ木まである…ここは異形の森。私の依るべき樹はいっ

たいどこにあるのだろう? しばし足を休めて、先人の残してくれた地図の切れ

端を眺めてみることにしよう。ここで呟けば、木霊たちの耳にとまって、どこか

らか道標となる声が返ってくるかもしれない。


 そも、文学とは何なのか?

江戸時代までは「文学」といえば、朱子学や歴史を学び漢詩や和歌を嗜む武士

階級の学問のことで、庶民の間に生まれた人情本滑稽本といった戯作・川柳・

狂歌浄瑠璃・歌舞伎などは、娯楽に供するものとして、「文学」のうちには入

っていなかった。それが明治になって、西洋の影響から哲学・思想的要素の強い

「上の文学」と、虚構という文の芸に長けた「下の文学」とが融合し、日本文学

と呼ばれるものが作られていった。

坪内逍遥が、上から理念を押し付けるために書かれた勧善懲悪小説や政治小

説を廃し、また奇想天外な作り話も廃し、現実を科学的道理に基づいて描く『人

情世態の模写』が小説の主眼であるという文学理念をうち立てたのが、文学とし

ての小説の始まりだろうと思う。

彼の理念の背後にあったのは、社会現象も進化の一過程と考える社会ダーウィ

ニズムだったから、彼は進化の過程における今という時代の貌を、ありのままに

模写することを文学の主眼と考えていたのだろうと思う。

 彼はまた小説というものを、啓蒙や娯楽といった方便の文章から、『人の心目

を悦ばしめ、且その気格を自ずと高尚にする美術』の域にまで引き上げた。芸術

としての「文学・小説」の歴史がここに始まる。

 その逍遥が「小説真髄」を発表した翌年のこと、それを補足発展させるかのよ

うに、二葉亭四迷が「小説総論」を発表した。逍遥の「人情世態の模写」は、人

間の行為の裏側にある心理を描くことに留まり、小説全体の主題としての「人間

性や時代精神」を探求することではなかったから、二葉亭は、『模写といへるこ

とは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり』と、人間の心理のみに留まら

ない、虚相(自然の意)を描き出すのが模写であると定義した。ここに写実主義

リアリズム)という日本文学最初の大きな潮流が生まれた。

 当時の脅威であったロシアについて学んでいた二葉亭は、そこでロシア文学

出会い、日本の読み物とはまったく違った大きな力を発見し、目を見張ったこと

だろう。文学というものに、時代を切り拓く可能性を見たのだと思う。彼は、社

会現象を文学上から観察し、解剖し、予見するという文学熱にとりつかれた。

その予見とは、あくまで明日の日本を切り拓くための方途となるような予見だ。

そのために、明治という混迷の時代に、小説の中で、庶民における旧主義と新主

義とを衝突させ、日本の行く末を予見しようという実験を試みた。それが「浮雲

だ。

 しかし、「浮雲」はついに未完に終わった。観察・解剖はできても、時代を切

り拓くことはおろか、どんな好ましい予見もできず、旧時代の精神の敗北と、後

漱石の言うところの「ただ時代を上滑りに滑っていく」ような空疎な未来の予

見へと、物語が流れていったからだった。けれど、後の漱石の言葉どおりの結末

に向かっていったということは、二葉亭の予見は好ましいものではなくとも、当

たっていたというべきだろう。彼の小説は、後の時代を予見することができたの

だ。

 その後に書いた「其面影」も、家の重圧に喘ぐ理想家知識人は性格破綻に陥り、

「平凡」も文明批評以上のものにはなろなかった。よって、彼は彼の全作品を失

敗と呼んでいる。けれどもそれは、二葉亭が微力であったというよりも、小説と

いう文学には結局、時代を予見することはできても、切り拓くほどの大きな力は

なかったということではないだろうか。

では、文学にはいったい何ができるのだろう? 

時代を批評したり予見したりしたとして、それが明日の時代を切り拓く方途とな

るのでなかったならば、いったい何になるだろうと思う彼の気持ちはよく分かる。

 それでも、私は思うのだ。時代を切り拓くほどのことはできなくとも、一人の

人間にとっての小さな光を見つけることはできるのではないかと。その小さな光

の粒の集積が、おおきな光の波に育っていかないとは限らない。小説が掬い取れ

る光はほんの小さなものだが、その光は読者の中に、灯るものなら灯るだろう。

そうして光を抱いた人たちが、明日の時代を生きていくのだ。


 私を取り巻くこの小説の森、現代日本の小説の森、異形の森、この中に、文学

の樹はいったい何本あるのだろう?