父を悼む

父はまだもの心もつかないうちに両親と死に別れ、親の顔を知らないまま、新潟の伯父の家で育てられました。少年期を戦争の中で過ごし、戦死する以外の道は考えられず、将来への夢を抱くこともありませんでしたが、出征送別会の翌日に、思いがけず終戦を迎えました。

戦後は「青年の主張」という弁論大会に出場したり、小説を書いたりと、青年らしい覇気を見せる父でした。 
 
けれど、18歳で子供のなかった姉夫婦の養子になり、静岡県の山奥に来てからは、農業という好まぬ仕事に就かねばならず、その農業だけでは生計が成り立たないため、生活費を養父に頼らねばなりませんでした。加えて姉夫婦は喧嘩の絶えない夫婦で、父はすぐに来たことを後悔しましたが、といって、帰れる家はもうありませんでした。 
唯一の救いは恋をしたことです。ところが、好きになったその女性は、結核で亡くなってしまいました。 
何ひとつ思うに任せぬ失意の父は、そのころに人生を諦めたのかもしれません。 
 
誰でもいいという思いで迎えた嫁は、働き者で明るく世話好きな性格でしたが、父の憂愁を理解してくれる人ではありませんでした。父はいつも自分ひとりの中に閉じこもっているような人になりました。 
それでも4人の娘ができ、子どもたちにはとても優しい父でした。寝る前にいつも聞かせてくれた「かわうそくん」という自作のお話は、最後にきまって近所の子どもたちが登場し、毎回違ったラストになるのでした。 
 
農業では現金収入が少なすぎると思った母は、父を林業に送りだしたりしましたが、その仕事も常にはありませんでした。どこかの会社に就職をと目論んでいた矢先に、養父の弟が営む水道工業所が人手不足だということで、そこの工夫にと乞われて行くことになりました。義理に縛られた父には、またしても選択の余地はありませんでした。 
以来30年近く、黙々ときつい水道工事の仕事を続けました。青年のころは、小柄で色白のインテリタイプの人でしたが、当時の父は真っ黒で、骨と筋肉しかないような、ひどく痩せた工夫でした。 
娘たちは一人、また一人と成人し、家を離れていきました。 
その間、それなりに幸せそうにも見えていた父でしたが、心のどこかに闇を抱えていたのでしょうか、50代の終わりになって精神を病みました。その後は前立腺肥大、糖尿、腰痛、胃癌、腸のポリープ・・・次々と病気ばかりの晩年でした。
ここ数年は肺線維症で酸素吸入の生活になり、肺炎で何度か入院しました。 
それでも娘が、「お父さん、自分の人生を振り返ってどう思う?」と聞くと、「まあ、幸せだったわいなあ」と答える父でした。 
 
酒と、風呂と、星を眺めるのが好きな人でした。歴史と新聞が好きで、歴史の本を読み始めると、誰かに呼びかけられても、まったく聞こえなくなる人でした。 
争いが嫌いで、他人を責めることのない人でした。また、驚くほど動物に好かれる人で、蝶や野鳥が頭に止まったり、野良猫が勝手に膝に入ってきて丸まっていたりしたこともあります。その猫は、父がトイレに用を足しに行くと決まってついて行って、隣の小便器で自分も用を足すのです。それに困った母に、遠くへ捨てられてしまいました。 
口数が少なく、いつも静かに家族の団欒を見守っている人でした。そのくせ時々、はっとするようなひと言を言ってくれる人でした。 
 
趣味・嗜好は高尚な人で、不味いものは決して食べず、健康のために何かを我慢したり、努力したりする人ではありませんでした。肉体労働は本来は嫌いで、家では草の一本も抜かず、怠け者と言われました。 
旅行や人付き合いはせず、車の免許も取ろうとしない変わり者でした。お祭りも好まず、お祭り娘の母には、「面白くない人」だと嫌われました。母の絶え間ない小言には、「おまえは幼稚だ」と言ってよく耐えました。
 
母にはたくさん苦労をかけましたが、最後までありがとうが言えませんでした。そのかわり、病床では母の姿ばかり目で追って、じっと見つめていました。娘には、母のことばかり頼む父でした。 
 
痰がたくさん出て、ひと月の入院で200回近くも苦しい痰の吸引をして、「眠るように逝くなどと世間ではいうが、大嘘だ」と怒っていました。
 
10月3日の夜、母の顔を見て、「もうお別れだ」と言ったのが最後の言葉です。 
4日の午前、ついに力尽きて、最後の時間は眠るように、静かに、静かに、逝きました。 
 
これが私の父です。 
 
もう、いません。