心の眼で見る ー 五・七・五 文学(2)

さて、続きを書きましょうか。
そうそう、このごろの「五・七・五文学」のところからでした。
このごろの特徴として、句における点景の変質ということがあるように思います。
これまでの1)~4)の句群はみな、点景が圧倒的に句の雰囲気を支配し、そこから感動が滲み出ているといったものでしたが、このごろはちょっと変わってきたようです。
次に挙げる句群は新聞の俳壇から引いてきたものです。いずれも選者の評をもらっている句です。
残念ながら、セイラのコレクションbookにはこの句群のものは入っていません。

5)点景の比重が軽く、散文化した句
  
 a 葉桜や疾うに今年の花忘れ(川越市 Wさん)

 b 退職の言葉少なし赤き薔薇(横浜市 Tさん)

 c 剪るも惜し散らすも惜しや大牡丹(米子市 Eさん)

 d 父の日が恐縮しつつやつて来る(可児市 Kさん)

 e 短夜や目覚まし鳴るを待ちてをおり (新潟市 Iさん)

a~cでは、葉桜や赤き薔薇や大牡丹に目が注がれていて、それが点景と言えば点景なのですが、残り部分の説明的表現がなければ意味を成さない点景です。肝心な感動の方は散文的に説明され、その説明によって点景が引き立てられている格好です。

c・d は点景にはほとんど役割がなく、句全体が散文そのものではないでしょうか? そして、これらの句には率直な良さや日常の一断面を見るおもしろ味があります。

散文書きのセイラには作りやすい気がします。やってみましょう。ちょうど夕暮れ時です。

   今日という命愛しみ緋色日沈む(セイラ)

あ、失礼しました。うっかり、お気に入りの「五・七・七 文学」になってしまいました。やり直します。

   今日という命惜しんで日の燃ゆる(セイラ)
 
こうしたこのごろの句の傾向を「五・七・五 文学」の新しい形と見るか、劣化と見るかは意見の分かれるところでしょう。

さて皆様、最後に、私がこのブログ世界で見つけた珍しい句についてお話ししたいと思います。

6)心が点景を創り出している句

   鳥も鳴くその深き果て風流る

この句の点景は現実にある材料をもって描けるものではありません。
「鳥も鳴く」とありますが、句中に存在するのは鳥の声だけであって姿はありません。作者の視線は鳥には当たっていないのです。
「深き果て」は、どこに目を置けば見えるのでしょうか?これを敢えて点景と言うならば、それは虚空です。何もない所に鳥の声だけを捉えています。
「風」も作者の肌に吹きかかる自然の風ではありません。五感では感知できない風を作者の心だけが感じ取っているのです。
つまり、この点景は心象風景です。
「鳥」の声は、おそらく虚空を突き抜けるような悲しく鋭い声でしょう。「鳥も」と表現されているところから、作者の心もすでに泣いていることが分かります。
「その深き果て」は存在のすべてを飲み込んでしまう、宇宙の深遠に連なる果て無き果てだと思います。
そして、そこに流れる「風」とは無常の風。あらゆる命の彼岸の姿。として捉えられているのではないでしょうか?
まず先に作者の中に表現したい強烈な心情があって、その心の眼で捉えた心象風景を素材としてでき上がった句です。    

もう一つ。

   探りても隠れん坊する鬼ひとり

これも心象風景です。隠れん坊している具体的な場所は関係ありません。
今までみんなと一緒に遊んでいたと思ったのに、ふと気がつくと鬼役の自分一人が、前の句で言う「深き果て」のただ中に取り残されているのです。
何も見えず何も掴めない虚空を、孤独におののきながら必死になって手探りしている作者の姿が描かれています。

この2つの句をブログの中に見つけた時は衝撃でした。目から鱗とはこのことでしょう。
たった 五・七・五 で、こんなにも広く深い世界が描けるのか! こんな複雑な心情(悲しい・恋しい といった単純な一語では表せない、いわば哲学的心情)が描写できるなんて! という驚きでした。
まったく、たまげました。五・七・五の17文字をなめていたと思いました。

心の眼が見る点景を詠んだ句、ここに私は、明日につづく「五・七・五 文学」の新しい可能性があるような気がします。いつか私もこんな句を詠んでみたいものです。