五・七・五 文学 (1)

前回の記事で下手な短歌を披露してしまったついでに、きょうは短歌・俳句といった短詩型の文学について考えてみようかと思います。

 

まずは五・七・五ですが、これを俳句と言わず、短詩型と言ったのには理由があります。私は俳句についての見識が乏しく、うっかり「俳句は・・・」などと言うと識者の顰蹙を買いそうな気がしますし、また、歴史ある俳句そのものを論じようと思っているわけでもないからです。俳句の成り立ちや変遷に関わり無く、この、五七五 というたった17文字の短い表現形式の文学にどのような特徴と可能性があるのかを考えてみたいと思います。

 

「五・七・五 文学」に用いられる素材は、これまでの作品群を眺めてみると 点景 であると言えそうです。ここで言う点景とは絵ではありません。その中には作者自身が存在し、音・匂い・味・触覚・動き をも含む1シーンで、しかも意図的にズームされた1点のシーンです。

さて、その点景を使って「五・七・五 文学」はどんなものを表現できるでしょう?セイラのコレクションBOOKにある有名無名の句を引いていくつかのタイプに分類してみます。

 

1)点景の持つ情趣をそのまま表す句

 

   古池やかはづ飛び込む水の音(芭蕉
  
   霧雨の夕べに浄し娑羅の花(セイラ)

 

臆面もなく並べてみましたこの2つ。できの差はあっても、タイプとしてはお仲間だと思います。

ここで表現されている点景がズームされたビデオ映像と違うのは、どんなにズームしてみてもビデオが表現するものは現実だけだということです。そこには雑多な現実の全てが入ってしまいますし、現実以上の情趣を感じさせることもできません。

それに対して、この短い文学の言葉たちは、取り込みたい情景だけを取り込んでいます。したがって、そこに描かれた点景からは作者の意図した情趣が醸し出されてくるわけです。このタイプの句は昔も今もよく目にします。

 

2)内なる思いを点景に重ねる句

 

   賀状書く1つフォルテの符を添えて(愛知県 藤井高子さん)

 

   ピリオドを忘れた過去に積もる雪(愛知県 塩谷美穂子さん)

 

まず作者の内に思いが存在していて、それにぴったりくる点景を得て外に出た形の句。これもけっこう見受けられます。

 

3)点景から呼び起こされた心の動きを捉えた句

 

   鼻先にひらりと冷たき雪一片  


   白雪に陽光差して春立ちぬ    

 

  *(この2首は瞬時に浮かんだものを書き留めたものですが、どうも自分の句ではないような気がします。誰の句でしょうか?ご存知の方は教えてください)  

 

ふと出会った点景に触発されて湧き起こった自分の心の動きに視線が注がれています。1)とは似て非なる句です。1)では作者は外から点景を眺めています。いわば読者と同じ位置に立っているのです。それに対して、こちらでは作者も点景の一部になっています。

「白雪に・・」の句では分かりにくいかも知れませんが、春の陽の眩しさに目を細める作者の姿が暗に描かれていると思います。

 

4)点景に触発された心の動きをストレートに心情表現する句。

 

   あな嬉しをかしき声のかはづをり(セイラ)

 

   家々の灯火なつかし霧の道(セイラ)

 

 これは3)の仲間ですが、「嬉し」「なつかし」などとストレートに心情表現しているため、3)に比べて芸のない句で、文芸としては駄作とされがちな句です。確かにセイラの句はあまりに単純な気がします。でも、ちょっと待ってください。ストレートな心情表現はダメと言い切るのも早計ではないでしょうか。ストレートな表現には無芸ゆえの素朴な強さがあって、人の胸を打つものです。次の句を見てください。

 

   父母のしきりに恋し雉の声(芭蕉

 

   閑かさや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉

 

ここで、「恋し」「閑かさや」とストレートに使われることにより、これらの言葉が本来的に持っている意味(言霊が光っていると思いませんか? このストレート表現を月並みで魅力のないものにしてしまうか、光らせられるかは、残りの字句による表現の巧みさにかかっていると思います。芭蕉さんの句はさすが!と思わされますね。

 

以上1)~4)は点景を素材として感動を描いた句群で、語弊を無視して言うなら伝統的なタイプの句群です。この他に、このごろの新しいタイプの句群があるわけですが、へたれなセイラは、目も頭もすでに限界に来てしまいました。新しいタイプについては、また次回お話しすることにしましょう。 

              (すぐにへたれるセイラ)