小説の森で - 11.文学は何ができるか (3)

 さて、クラルテに招かれた6人の小説家の中で、最も的確で分かりやすく述べているのはシモーヌ・ド・ボーヴォワール。彼女の言葉を要約しておこう。

 
シモーヌ・ド・ボーヴォワール 哲学教師 → 作家、サルトルの協力者
 
「人はみな他人と共有しない個人的な状況と、意識しないまま身に反映している他人と同一の状況とを持っている。世界とは、その各個別の状況と互いに包含しあっているすべての状況との渦動状態のことをいうのである。

人々は他人に近づくために、意味の伝達手段として言語を使う。しかし、会話・議論・講演などではどうしても伝達不可能な部分(壁)がある。それは各人の持つ生命の独特な味わいである

文学は各個人を分離させているその壁を確認し、越えさせる可能性を持つ。
一人の作家は、彼が包含し暗黙裡に要約している彼の世界を表現し、読者はその世界に入りこみ、少なくとも読書の間は、彼の世界を自分の世界のものとすることができる。それによって我々は、我々を我々の特異性の中に閉じこめる仕切り壁に抗して、個人別の特異な経験が、他の人々のそれでもあることを会得するのである。

各人は、すべての人々が彼ら自身について打ち明ける事柄を通じて、また彼らによって明らかにされる自分自身を通じて、その人々を理解するものである。

また、文学は本質的に一つの探求(世界と自分・人間との関係)である。探求と発見があるところに真実は現れる。一人の作家は、渦動状態にある現実の部分的真実しか捉えられないかもしれない。しかしそれが一個の真実であれば、それを伝えられた人(読者)を豊かにする

ところで、文学とはどういう時に生まれるのか? 集団的歓喜(意思疎通)のある時には文学は無用である。また絶望の(何ら頼るべきものがあるとは信じられない)時には不可能である。苦悩があり、それを表現することによって、その苦悩が意味を持つと考えられる時、つまり、他の人たちとの意思疎通を信じて、意思疎通を求めている時にこそ生み出されるのである。

文学とは、人々に個人的かつ普遍的な世界を開示して見せるものである。」
                         (趣旨の要約)

 
彼女の論を総括すれば、「お互いに結びついていながら、しかも離れ離れである個々人に、人間の中の人間的なものを救い出し、人間世界の普遍性を開示して見せ、孤独な人間を人間共同体の中に組み入れる。これこそ文学の仕事」であり、文学の力である、ということになるだろうと思う。

このボーヴォワールの言葉に接した時、私は実に胸のすく思いがした。まったく、まったく、塵ほども異存なし。
それでも緋野は、少~しだけ彼女よりも欲張りなのだろうか。人間世界の普遍性の開示というだけでは、(これまでの文学はすべてそうであったとは思うけれども)、何か少しもの足りない。それが何なのか、いつかまた書いてみようと思っている。

 

 


  

小説の森で - 11.文学は何ができるか (2)

父の一周忌があり、記事の間が開いてしまいました。
最近、急に寒くなって、家の近くの花の木はもう紅葉しかけています。今年は冬が早いかもしれません。
小説の森は、近年もうずっと冬ですけれどもね。

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 文学の力とは、現実に対する異議申し立ての力であるとしたホルへ・センプルン、現実世界を検討させる力であるとしたジャン・リカドゥ、変革への信号を送る能力を持つとしたジャン・ピエール・ファイユ、その完璧な夢の場から現実を非難する力があるとしたイヴ・ベルジュ。彼らがみな、文学を作品世界と現実社会との対峙において捉えていたのに対し、サルトルとボーヴオワ―ルは、文学というものの個々人に及ぼす力について述べている。

 

 
ジャン・ポール・サルトル
 実存主義哲学者。小説・劇作・評論・哲学論文等。ノーベル賞辞退。
 
「飢えた子どもの死を前にして書物がそれを防げないように、書物が現実に対して直接的実践的な効用を持たないのは明白である。では、何ができるか。
 文学はイヴ・ベルジュの言うような「世界苦を忘れるための手段」ではなく、作品の中には、過去があり、未来があり、連続がある。言語に関わる実在であって、けっして「夢」ではない。
作家が文学作品を創作する時、不完全にしか目的を達し得ぬとしても、到達しようと望んでいる目的を持ってはいる。つまり、目的を持った現実の実践活動なのである。そこで作家によって意味されたものは、「言葉」という記号を通して読者に委ねられる。
読者も小説世界を逃避的夢として見るのではない。読者が書物に求めるのは、彼自身の生活の中に発見していなかったような意味である。人は常に現実に意味を与えて生きているが、それは互いの間で合致することのない部分的な意味にすぎないため、自分の生にすべての意味の統一を与えたいと望んでいる。
読者は、作者が到達しようと望んでいると、彼が感じる目的への見透しを持って、連結された言葉の意味を把握する作業を行う。これも本物の実践活動である。読者は一句一句を新しい経験として受け取り、自分が意味の総体を再構成しようとして読むのであり、その意味するものを作り出すのは読者自身である。」

 
つまりサルトルは、自分の生に意味の統一を与えたいという人間の願望を、実現へと向かわせる力、それが文学の力であると言っている。

また文学によって、人は現実の圧制から免れることができ、一瞬の自由を生きることができるとも言っている。それはイヴ・ベルジュの言うような、逃避という意味においてではない。読者は作品世界に入りこむことによって煩わしい現実から一時的に隔離され、作者の魂の中を自由に散策することで、自己の魂を磨けるという意味においてである。

文学とはそのような、まるでドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」のような働きをするもので、読者は、そして作者自身も、そこで自分自身の魂を磨くことができる、そういうものだと私も思う。

 

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小説の森で - 11.文学は何ができるか (1)

    今から半世紀も前のこと。フランスの学生機関紙「クラルテ」が、当時活躍していた6人の作家を招いて「文学は何ができるか」というテーマで討論会を開いたそうだ。その時の記録がたいへん面白い。その六人の作家の主張にしばし耳を傾け、各人の文学論を要約してここに書き出してみる。

 

 <ホルへ・センプルン
18歳で祖国を追放され、ナチス政治犯収容所で生活。スペイン共産党員。
 
「文学の力とは異議申し立ての力である。真実を示し、読者の非難憤激を買う力である。大衆文化の振興は、そういう文学の力を中和しようというブルジョワジーの戦略であり、ノーベル賞もその一つだ」

 
ジャン・リカドゥ> パリの教職者であり、作家。
 
「文学とは習練された言語行為(書くという行為)によって自ずと出現する一つの架空世界である。文学は、そうして出現させた架空世界を現実世界に対決させ、検討させるものである。(おまえは、おまえがそうであると称している通りのものなのか)と、世界に問いかける力がある」

 
ジャン・ピエール・ファイユ
 哲学者・社会学者・小説の他に、詩・劇作も手がける。
 
「文学は信号を送る能力を持ち、遠いところから変革の下準備をすることができる。信号がどんなふうに我々に語りかけているかを示し、我々の現実がいかなる信号を通して我々の方へ到来するかを、語り得る」

 
イヴ・ベルジュ> 評論家でもある。
 
「人間は現実を逃れるために書き、読む。文学世界は真実で、欠乏も、飢えも、死もない完璧な夢の場である。よって文学作品が、現実世界における人の行動を変えることなどない。ただ、その想像世界は真の生の感じを与え、読者がその想像界から現実界へと帰った時、彼が想い起こす想像界は、この現実界を非難する。文学にできるのは、そういうことだ」

 
なるほど、彼らの主張を総合すれば、文学には「現実を検討したり、非難したり、異議を申し立てたり、その変革のための信号を送る力」があるようだ。


彼らの論の導き方には処々異論もあるけれど、文学の力に関する彼らの結論については、私は反対はしない。そういう力も確かにあるように思われる。私が「沙羅と明日香の夏」で描いた 『空気による虐め』や『自然や命を見つめること』も変革への信号の一つだったと思う。
ただ、それだけだろうか? 彼らは、文学を現実社会との対峙においてのみ捉えている。そこに大きな欠落がありはしないだろうか。

次回は、サルトルボーボワールの言葉を聞いてみることにしよう

小説書きの卵さんたちに

「青い鳥のロンド」にレヴューをくださったブログの友人 池ちゃん から、こんどは小説執筆上のアドバイスをいただきました。 こつこつと孤独に小説を書いてみえる小説書きの卵の皆様にも、ご参考になるかもしれませんので、公開させていただきます。


こんにちは。僭越ながら気づいたことをお伝えします。

今回は特に女性向きな作品でした。それはセイラさんの個性ですから、さらに女性に特化させても良いのではないかと思います。
書き出しから光と風を感じ、とても良かったです。あと一つ欲しいのは「匂い」。

女性の脳は、地図を読んでも「○○ビルから○メートル」ではなく「クロワッサンの美味しいあの店の向い」であるとか、そういう"感覚"の情報が先に来ます。
嗅覚は思考回路を通さずに脳にダイレクトに来ますから印象に残りやすく、味覚・嗅覚から思い出も紡げますからね。
ですので食べ物の表現も、色や味以上に香り・匂いの表現によって、さらに女性に印象付けられると思うので、不本意かもしれませんが、嫌味にならない程度に最大限「匂い」も盛り込んでみてはいかがでしょう。
ストーリー以上に「食べ物」の印象付けは大事ですよ。

また、テーマはとても魅力的なのですが、読んでいて心に起伏が起こりませんでした。
それは、それぞれの「場」の書き出しも、主人公も会う友達のテンションも一定、つまり冷静なのです。ですので「場」が変わってもまた同じところが始まるような錯覚を覚えてしまいます。
「対比」の話を以前しましたが、友達一人一人の個性の設定をもっと大胆にしても良いのではないでしょうか。

○子は店に入ってくるなり「ねえ聞いてよ、失礼だと思わない? わたし頭に来ちゃった」と、言い終わるか終わらない内に大きな荷物を床にドンと置き、私の顔を覗き込んだ。隣のテーブルの学生が驚いた表情を見せたが彼女はお構いなし。○子はいつもこうなのだ。

例えばこうすると、主人公のテンションが一定であったとしても、前までの「場」の空気がパッと変わり、友達のせっかちな個性も瞬時に伝わります。
場が変わっても「いつも同じ感じ」という危険性を排除できますよね。

いつも彼女はボンゴレを頼み、話に夢中になりながら、手元を一切見る事も無くパスタと一緒に魚介の香りをくるくると凄まじい速さでフォークに巻き付ける。器用なものだ。

みたいな表現も、料理のイメージとともに○子の表情まで伝わってきそうですし、次に彼女が言いそうなことも豊かに湧いてきます。
別の友達は、また違う個性があると面白いし、場によって空気が変わり飽きさせない。

〇美はやはり早く来ていたようだ。どんよりした空気が辺りを取り巻くので彼女だとすぐにわかる。私は思わず「どうしたの? 大丈夫?」と心配してしまうのだが、結局はいつも愚にもつかないことで悩み、落ち込んでいるだけなのだ。「いつもの落ち込みね。元気で安心したわ」「ひど~い、何よそれ。何か奢ってよね」
「甘いものを食べると気分も明るくなるって本に書いてあったわ。ケーキでも食べよっか」

と、柑橘系の酸味が鼻をくすぐるタルトであるとか、何を食べさせれば彼女に似合うか考えるのもまた楽しい作業です。

これらの手法を使ったからと言って、エンタメに傾くわけではありません。
純文学や文芸作品などでも、料亭や旅館、あるいは蕎麦屋などで食べ物の描写が魅力的に描かれます。
これを生かさない手はありませんよ。
とりあえずお伝えいたしました^^


登場人物の個性の鋭角化、嗅覚の効用・・・なるほど、ですね。
次こそ・・・・頑張るぞ! という闘志が湧いてきたセイラでした。
池ちゃん、今回も的を射たアドバイス、ありがとうございました

次々と来る「青い鳥のロンド」レヴュー

次作の執筆に取りかかっている緋野ですが、9月に入ってからパタパタとレヴューが届きます。出版からすでに3か月、どうして今? と思いましたら、どうやら書店で注文してくださった方たちのようです。
出版のご案内を送ったのが確か7月の中旬だったと思いますので、下旬に書店に注文していただいたとして、本が書店に届くまでに1か月~一か月半かかったと思われます。 
出版・書店業界を悪く言いたくはないのですが、この遅さ! 取次制度に起因するものでしょうが、何とかならないのでしょうか。 これでは書店さんは、とてもネット書店には勝てません。

書店で注文してくださった方々、ご不自由をおかけしましたが、町の本屋さんの存続に貢献していただけたと思います。ありがとうございました。

          

           

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    60代の女性(主婦) M さん からのメール


どんどん読めて一気に読み上げましたよ。ただ漢字が難しかったです。
よくあるパターンながら共感できる内容で興味深く読みました。

夢子さんや栄の魔女の存在は面白かったです。
小説としてはどうでもいいことなんですが、夢子さんの生活を支えている男性の奥様のことを考えてしまいました。
それと、あの小説、テレビドラマとかで連載ものだったら面白い、と思いましたよ。
よくある日常のことだけに共感する人も多く、楽しめるような気がしました。


Mさん、ありがとうございました。
私の小説はいつも、普通の人の普通の生活の中にあるものを描いていますので、よくあるパターンばかりと感じられることでしょう。ダイナミックさや奇想天外な面白さはないのです。
でも、退屈されなくてよかったです。
漢字のことは前記事の A さんのレヴューにもありましたね。ルビをふるべきでした。ごめんなさい。

 

     70代の女性(自営業) K さん からのメール


「青い鳥のロンド」 一気に読みました。
あんな小説が書ける緋野さんはあらためてすごいなと思いました。
女心、夫婦の機微など胸のすくようなタッチで描かれていて、もしあれが有名人の作品ならすぐ書店に並び、話題となったことでしょう。
 なかなか世に出るってことは難しいってことですね。
 
一つ、えらそうなことを言わせてもらえば、登場人物の生き方が従来の型に嵌っていて、いわゆる新しさがないこと。ドラマの「逃げ恥」が当たって、私的にはこれ何?って感じだったけど、文学の世界ではそういったありえないような取り扱いがアピールするのかも・・・・。
 
でも、わたしにとっては面白いいい作品でした。教室の生徒にも回し読みしたいと思っています。


Kさん、ご感想にアドバイス、ありがとうございました。
新しい生き方・・・まさにそれを模索しつつ書いたのですが、目を見張るようなものは生まれず、結局、四人はああいう形になりました。
「奇抜な発想を」ということは、いつも編集さんに指摘されるところですし、それがトレンドだと思います。ですが、そこに売らんかなの嘘臭さが漂うと、どうも我慢できなくて。
いっそファンタジーの世界を描いたものであれば、いいのですけれどもね。

文学は衰退の一途を辿り、いまや大衆文芸、それもドラマ的なものの洪水です。
ありきたりな人生を描いて、たくさん売れようというのは無理な話ですよね。
私は世に出なくてもいいんです。魂の通う誰かに、私の魂を残したいだけですから。

また、いただきました。「青い鳥のロンド」 レヴューです。

大学時代の同窓生、同じ専攻だったAさんからもお手紙をいただきました。ほんとうにありがたいことです。
本の感想に関わる部分だけ抜粋して掲載させていただきます。

 

    *********************
 
 
 大変遅ればせながら・・・・この夏、「沙羅と明日香の夏」 と 「青い鳥のロンド」 を読みました。いずれにも、作者の生きることに対する真摯な姿勢を強く感じました。
 
 今年出版された 「青い鳥のロンド」 では、子育て中のもやもやした気分を思い出しました。
手伝っている、恐妻家だといった夫の言葉にいちいちいらだち、子どもに対しては急かしてばかり、座る間も惜しんで一生懸命やっているつもりでも、自分の時間が持てるのは夜中で、それから仕事の準備をするものの、いつのまにかうつらうつら。
子育ても不十分、仕事も不十分、なのに夫は仕事で忙しいと休みも不在・・・。 
 
我が家の場合、夫の態度が変わったきっかけは、夫の両親が倒れたことでした。土日を利用して、しばしば遠方まで帰ったりする中で、家族のこと、夫婦の事、色々思うところがあったのでしょう。
子どもの反抗期も重なり、家族の形が揺らぐ中で、それまでよりも積極的に家事を担おうとするようになりました。
と、小説に触発されて、来し方を振り返ってしまいました。
 
 上の息子は結婚し、お嫁さんは今は家にいます。息子がそちらを望んだようです。でも、休みの日には食事の準備をしたり、育児休暇を1か月取ったりと、子育てにおおいに参画しているようです。
また、私の職場はしっかりした女性が多く、主要な部署で女性が力を発揮しています。公務員が恵まれているという点はあるでしょうが、男女を問わず力があれば影響力を発揮できる環境は、少しずつ整ってきていることは確かだと思います。
 
 二作を読んで、結末の部分が素敵だなと思いました。理想論に縛られず、今の自分の条件の中で、より良い方向を目指す努力を続ける。そのことをうまく描いていると思いました。
私の両親は今、認知症が進んできています。何事もすっきり解決できる問題はありませんね。いつも片付かない状態です。 でもその中で、自分の人生を大切にすることを諦めてはいけないなと思います。 「幸福」 の問題は、一生のものですね。
 
 少し気になったところが二点ありました。
 ・「看護師」 ではなく 「看護婦」 なのは、何か訳があるのでしょうか。
 ・難読語が使われていますが、読者を選ぶ意図が無いならルビが付されているほうが親切ではないでしょうか。
 
    **********************


A さん、ありがとうございました。そして、さすがですね。文学からは少し離れたお仕事をされるようになりましたけれど、目は確かでいらっしゃる。
 
ご指摘の点、ごもっともです。私の両親は山奥と言っていいほどの田舎に住んでいて、病院に連れていくたびに、患者さんたちの誰もが(看護師さんたち自身も)、「看護婦さん」 と呼ぶのをずっと聞いていましたので、言葉に鈍くなってしまっていました。「看護師」と書くべきであり、私の不注意でした。
 
また、難読語とは、たぶん登場人物の名前のことではないでしょうか? そこも気配りが足りませんでした。書き直しを通して自分で何度も彼らの名前を呼んでいるうちに、そう読むことが自然になってしまっていました。読者の皆様、読者を選ぼうなどという意図は、私はこれっぽっちも持ってはいません。ただ単に、迂闊だっただけです。 ご不自由をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
今さらですが、いちおう
 
菜摘子 (なつこ)   翔子 (しょうこ)   百音 (もね)   麗 (れい)  
護 (まもる)   菜摘子の姉・遥 (はるか)
 
のつもりです。すでに独自の読み方をされた方は、それでも何の問題もありません。そのままの呼び方で、記憶に残していただければと思います。
 
 
「青い鳥のロンド」 緋野晴子著
         (リトル・ガリヴァー社) 1200円
   
就職氷河期の中でなんとか思いどおりの道を切り開き、仕事も結婚も手に入れた4人の勝ち組女たち。 夢を追う菜摘子を取り巻く人々、ある日忽然と現れた栄の魔女夢子さん。30歳を迎えた彼女たちを待っていたものは・・・。
 
今を生きる男女に、幸福の真の意味を問う現代小説。 
                   (舞台は 名古屋市 栄)                              
                                                                                    
 
     あなたは青い鳥が見えますか?
 
「一番好きだった人と、幸せの奪い合いをしている」    

 「心の震えは何物にも代え難いわ。ああ、生きている」                                              
 
「他の人たちにも何か不幸があったらいいのに……」     
 
「何だかんだ言っても、私たちはそれでも勝ち組なのよ」                                         
                               
「オマエは空っぽだって、喉の奥から嫌な声を出して笑うの」                          
 
「フッ、フッ、夢は掴んだとたんに消えてなくなるシャボン玉」                        
 
「暗闇の中で、君と僕のことを想って泣いた」                       
 
 
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小説の森で - 10.文学にノーベル賞はそぐわない

家じゅうの開け放った窓を、9月の清涼な風が吹き抜けていく。 
秋が来た!
出版騒動の夏は終わったのだ。できるだけのことはしたのだから、もう十分だ。売れ残った本は出版社に返っていくだろう。「さあ、書くのだよ」と、小説の森が私を呼んでいる。自分の場所に帰ろう。

 

 
   小説の森で - 10.文学にノーベル賞はそぐわない

 

 今年もノーベル賞の季節に入った。
昨年はボブディランがノーベル文学賞を取ったというので、世界に衝撃が走ったものだ。彼は作詞(詩)をするといっても、ご存知のとおり有名なミュージシャンであり、主体がミュージシャンなのにと、受賞に異議を唱える声も聞かれた。

 確かに、彼の詩は楽曲を伴うのが前提の詩だから、文字だけの文芸の世界においてみると、異端に見えるかもしれない。けれど、詩とは元来、その内に韻律を含むものではないだろうか。詩だけでなく、小説だってそうなのだ。書かれているのは文字だけだけれど、それを書く時も、読む時も、人の頭の中には文字が音声となって響いているはず。だからこそ、作家は響きの良い表現を模索しもするのだ。

 ボブの心に湧き出でた詩の言葉が、彼の歌となって声に出た時、それが文学的な内容の詩であるならば、十分に文学の仲間であると私は思う。
そして彼の詩はあきらかに、緋野の考える「文学」の本質の上に立っているものであり、さらに、世界に与えた影響には偉大なものがある。だから私は、昨年のノーベル賞の選考にだけは、そういう意味で「あっぱれ」と申し上げたい。
 
 ところで、このノーベル賞だけれど、過去の受賞者を思うにつけ、緋野の頭には ? ばかりが浮かんでくる。
 そもそもこの賞を創設したアルフレッド・ノーベルは、「理想的な方向性(in an ideal direction)」の文学を対象とし、理念を持って創作し、最も傑出した作品を創作した人物に授与される、と規定していたようだ。

 それはつまり、基本的に、人類の幸福な未来を志向し、少なからず貢献する作品・作家、ということではないだろうか。人類の幸福を支えるのは自然科学だけではない。文学にも賞を与えて振興しようという意図には共感できる。
けれども、では、最も傑出した作品・作家というのは、どう選んだらいいのだろう? そもそも文学作品の価値に、順位などつけられるものだろうか?
 
荒川洋治さんの「ぶんがくが すき」(『文学が好き』旬報社)というエッセイに次のような言葉があった。(これはブログの親友、セネカさんの声を通して聞いた言葉)

 <そっと夜、ひとりで、涙をながすような気持ちで。
ぼくは「ぶんがくが すき」なのだ。>

 

 文学は、それを書くたったひとりの人間の魂の放出であり、またそれを読むたったひとりの人間の魂に呼びかけるものではないだろうか。その出会いはきわめて個人的なできごとであり、ひとつの作品がすべての人に同じ感銘を与えることはなく、よって、同じ価値を持つものでもない。
 その魂と魂との出会いの意義・価値を、その高低・軽重を、いったい誰が測れるというのか。

    最も傑出した文学作家を毎年ひとり選ぼうなど、無謀なことだ。文学にノーベル賞はそぐわない。緋野はそう思う。
まあ、そういうものという前提で、たまたま幸運な人が拾われると考えれば、それはそれでいいのかもしれないけれど、熱くなるほどの価値はない。

 

世間はなぜそう騒ぐのだろう? 今年こそ村上春樹ではないかと、熱い期待を寄せる声がまた湧いてきそうだけれど、村上さんは迷惑しているだろうなと思う。世界で最も受け入れられている作家の一人、それだけで十二分ではないかと緋野は思うのだけれど。