また、いただきました。「青い鳥のロンド」 レヴューです。

大学時代の同窓生、同じ専攻だったAさんからもお手紙をいただきました。ほんとうにありがたいことです。
本の感想に関わる部分だけ抜粋して掲載させていただきます。

 

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 大変遅ればせながら・・・・この夏、「沙羅と明日香の夏」 と 「青い鳥のロンド」 を読みました。いずれにも、作者の生きることに対する真摯な姿勢を強く感じました。
 
 今年出版された 「青い鳥のロンド」 では、子育て中のもやもやした気分を思い出しました。
手伝っている、恐妻家だといった夫の言葉にいちいちいらだち、子どもに対しては急かしてばかり、座る間も惜しんで一生懸命やっているつもりでも、自分の時間が持てるのは夜中で、それから仕事の準備をするものの、いつのまにかうつらうつら。
子育ても不十分、仕事も不十分、なのに夫は仕事で忙しいと休みも不在・・・。 
 
我が家の場合、夫の態度が変わったきっかけは、夫の両親が倒れたことでした。土日を利用して、しばしば遠方まで帰ったりする中で、家族のこと、夫婦の事、色々思うところがあったのでしょう。
子どもの反抗期も重なり、家族の形が揺らぐ中で、それまでよりも積極的に家事を担おうとするようになりました。
と、小説に触発されて、来し方を振り返ってしまいました。
 
 上の息子は結婚し、お嫁さんは今は家にいます。息子がそちらを望んだようです。でも、休みの日には食事の準備をしたり、育児休暇を1か月取ったりと、子育てにおおいに参画しているようです。
また、私の職場はしっかりした女性が多く、主要な部署で女性が力を発揮しています。公務員が恵まれているという点はあるでしょうが、男女を問わず力があれば影響力を発揮できる環境は、少しずつ整ってきていることは確かだと思います。
 
 二作を読んで、結末の部分が素敵だなと思いました。理想論に縛られず、今の自分の条件の中で、より良い方向を目指す努力を続ける。そのことをうまく描いていると思いました。
私の両親は今、認知症が進んできています。何事もすっきり解決できる問題はありませんね。いつも片付かない状態です。 でもその中で、自分の人生を大切にすることを諦めてはいけないなと思います。 「幸福」 の問題は、一生のものですね。
 
 少し気になったところが二点ありました。
 ・「看護師」 ではなく 「看護婦」 なのは、何か訳があるのでしょうか。
 ・難読語が使われていますが、読者を選ぶ意図が無いならルビが付されているほうが親切ではないでしょうか。
 
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A さん、ありがとうございました。そして、さすがですね。文学からは少し離れたお仕事をされるようになりましたけれど、目は確かでいらっしゃる。
 
ご指摘の点、ごもっともです。私の両親は山奥と言っていいほどの田舎に住んでいて、病院に連れていくたびに、患者さんたちの誰もが(看護師さんたち自身も)、「看護婦さん」 と呼ぶのをずっと聞いていましたので、言葉に鈍くなってしまっていました。「看護師」と書くべきであり、私の不注意でした。
 
また、難読語とは、たぶん登場人物の名前のことではないでしょうか? そこも気配りが足りませんでした。書き直しを通して自分で何度も彼らの名前を呼んでいるうちに、そう読むことが自然になってしまっていました。読者の皆様、読者を選ぼうなどという意図は、私はこれっぽっちも持ってはいません。ただ単に、迂闊だっただけです。 ご不自由をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
今さらですが、いちおう
 
菜摘子 (なつこ)   翔子 (しょうこ)   百音 (もね)   麗 (れい)  
護 (まもる)   菜摘子の姉・遥 (はるか)
 
のつもりです。すでに独自の読み方をされた方は、それでも何の問題もありません。そのままの呼び方で、記憶に残していただければと思います。
 
 
「青い鳥のロンド」 緋野晴子著
         (リトル・ガリヴァー社) 1200円
   
就職氷河期の中でなんとか思いどおりの道を切り開き、仕事も結婚も手に入れた4人の勝ち組女たち。 夢を追う菜摘子を取り巻く人々、ある日忽然と現れた栄の魔女夢子さん。30歳を迎えた彼女たちを待っていたものは・・・。
 
今を生きる男女に、幸福の真の意味を問う現代小説。 
                   (舞台は 名古屋市 栄)                              
                                                                                    
 
     あなたは青い鳥が見えますか?
 
「一番好きだった人と、幸せの奪い合いをしている」    

 「心の震えは何物にも代え難いわ。ああ、生きている」                                              
 
「他の人たちにも何か不幸があったらいいのに……」     
 
「何だかんだ言っても、私たちはそれでも勝ち組なのよ」                                         
                               
「オマエは空っぽだって、喉の奥から嫌な声を出して笑うの」                          
 
「フッ、フッ、夢は掴んだとたんに消えてなくなるシャボン玉」                        
 
「暗闇の中で、君と僕のことを想って泣いた」                       
 
 
*図書館・書店・ネット書店でお求めください

小説の森で - 10.文学にノーベル賞はそぐわない

家じゅうの開け放った窓を、9月の清涼な風が吹き抜けていく。 
秋が来た!
出版騒動の夏は終わったのだ。できるだけのことはしたのだから、もう十分だ。売れ残った本は出版社に返っていくだろう。「さあ、書くのだよ」と、小説の森が私を呼んでいる。自分の場所に帰ろう。

 

 
   小説の森で - 10.文学にノーベル賞はそぐわない

 

 今年もノーベル賞の季節に入った。
昨年はボブディランがノーベル文学賞を取ったというので、世界に衝撃が走ったものだ。彼は作詞(詩)をするといっても、ご存知のとおり有名なミュージシャンであり、主体がミュージシャンなのにと、受賞に異議を唱える声も聞かれた。

 確かに、彼の詩は楽曲を伴うのが前提の詩だから、文字だけの文芸の世界においてみると、異端に見えるかもしれない。けれど、詩とは元来、その内に韻律を含むものではないだろうか。詩だけでなく、小説だってそうなのだ。書かれているのは文字だけだけれど、それを書く時も、読む時も、人の頭の中には文字が音声となって響いているはず。だからこそ、作家は響きの良い表現を模索しもするのだ。

 ボブの心に湧き出でた詩の言葉が、彼の歌となって声に出た時、それが文学的な内容の詩であるならば、十分に文学の仲間であると私は思う。
そして彼の詩はあきらかに、緋野の考える「文学」の本質の上に立っているものであり、さらに、世界に与えた影響には偉大なものがある。だから私は、昨年のノーベル賞の選考にだけは、そういう意味で「あっぱれ」と申し上げたい。
 
 ところで、このノーベル賞だけれど、過去の受賞者を思うにつけ、緋野の頭には ? ばかりが浮かんでくる。
 そもそもこの賞を創設したアルフレッド・ノーベルは、「理想的な方向性(in an ideal direction)」の文学を対象とし、理念を持って創作し、最も傑出した作品を創作した人物に授与される、と規定していたようだ。

 それはつまり、基本的に、人類の幸福な未来を志向し、少なからず貢献する作品・作家、ということではないだろうか。人類の幸福を支えるのは自然科学だけではない。文学にも賞を与えて振興しようという意図には共感できる。
けれども、では、最も傑出した作品・作家というのは、どう選んだらいいのだろう? そもそも文学作品の価値に、順位などつけられるものだろうか?
 
荒川洋治さんの「ぶんがくが すき」(『文学が好き』旬報社)というエッセイに次のような言葉があった。(これはブログの親友、セネカさんの声を通して聞いた言葉)

 <そっと夜、ひとりで、涙をながすような気持ちで。
ぼくは「ぶんがくが すき」なのだ。>

 

 文学は、それを書くたったひとりの人間の魂の放出であり、またそれを読むたったひとりの人間の魂に呼びかけるものではないだろうか。その出会いはきわめて個人的なできごとであり、ひとつの作品がすべての人に同じ感銘を与えることはなく、よって、同じ価値を持つものでもない。
 その魂と魂との出会いの意義・価値を、その高低・軽重を、いったい誰が測れるというのか。

    最も傑出した文学作家を毎年ひとり選ぼうなど、無謀なことだ。文学にノーベル賞はそぐわない。緋野はそう思う。
まあ、そういうものという前提で、たまたま幸運な人が拾われると考えれば、それはそれでいいのかもしれないけれど、熱くなるほどの価値はない。

 

世間はなぜそう騒ぐのだろう? 今年こそ村上春樹ではないかと、熱い期待を寄せる声がまた湧いてきそうだけれど、村上さんは迷惑しているだろうなと思う。世界で最も受け入れられている作家の一人、それだけで十二分ではないかと緋野は思うのだけれど。

二つの声援

私がずっと若かった頃にいっしょに働いていたMさんと、仕事上で関わりのあったSさんから、お便りをいただきました。お二人とも、「青い鳥のロンド」を読んでくださったとのこと。 もうほんとうに長い間疎遠になっていた方たちです。

どんなに時が遠のいても、私が私の人生において出会うことのできた人たちはみんな、「私の人生」と呼ぶ過去を構成する、掛け替えのない人たちなのですね。
どの一人も、私にとって欠くことのできない大切な存在だったのだと、つくつくぼうしの声を聞きながらお手紙を読んで、しみじみそう思いました。

 

   M さんのお便り (抜粋)

 本当に、本当に、お久しぶりです。そして、出版おめでとうございます。
「青い鳥のロンド」読みました。幸せとは何か、いろいろ考えさせられました。後半はどうなるんだろうとハラハラ・ドキドキ、物語に引き込まれ一気に読みました。最後、若い夫婦が自分たちの幸せを見つけたところで、思わず涙があふれました。
 私は、仕事はすごく楽しいですが、子どもたちにいろいろ苦労があり、夫は単身赴任でほとんど会話のない毎日。夕飯はほとんど一人です。母は認知症がひどくなって施設に入りました。
 幸せか?と問われると、幸せのようでもあり、でも悩みもたくさんありますね。
 また新刊を出される時はお知らせください。頑張ってくださいね。

 

   S さんのお便り (抜粋)

 「青い鳥のロンド」 読ませていただきました。これほどの長い作品を書かれた緋野さんの意欲とお力に感心させられるとともに、今もなお、みずみずしい感性を持ち続けられることに感動です。
豊橋の友人などにも紹介し、「若い頃に読んでいたら、また違った生き方をしていたかも・・・・・」と語り合いました。
次回作にも期待しています。

 

M さん、S さん、お便り、とても、とても、嬉しかったです。 ほんとうにありがとうございました。頑張って、次回はもっといい作品を書くつもりです。何年後に出せるか分かりませんが、待っていてくださいね。

 

「青い鳥のロンド」 緋野晴子著

          (リトル・ガリヴァー社) 


     ほんとうに幸せなのは誰なのか?
          幸せの条件とは何か?
     青い鳥はいるのか?

 

就職氷河期の中でなんとか思いどおりの道を切り開き、仕事も結婚も手に入れた4人の勝ち組女性たち。 夢を追う菜摘子を取り巻く人々、ある日忽然と現れた栄の魔女夢子さん。30歳を迎えた彼女たちを待っていたものは・・・。
今を生きる男女に、幸福の真の意味を問う現代小説。                              (舞台は 名古屋市 栄) 

ぼーちゃんの読む 「たった一つの抱擁」

前記事のぼーちゃんが、緋野晴子の最初の作品 「たった一つの抱擁」 も読んでくださって、またレヴューをいただきました。ほんとうにありがたいことです。

 

 「たった一つの抱擁」・・・・振り返ってみれば、ちょうど10年前です。末息子を大学に入れてしまって、「さあ、これから私は小説を書いて生きていくんです。本気なんですからね」と、私を便利屋のように思っている家族に宣言するために出版した、初めの一歩でした。

 初筆の気負いで描いた作品で、小説の形としてはやはり成功していないと思いますので、今では読んでいただくのも心苦しい感じがして、あまり売ろうと思ってはいないのですが、せっかくこれだけのご感想をいただいたのですから、ぜひレヴュー書庫にいただきたいと、ぼーちゃんにお願いしました。

 

書きたいテーマはいろいろありましたが、夫婦の生態に切り込んだ小説はほとんどなく、出版社に受けそうでしたし、一番売れそうな気がしましたので、これを最初に出版しました。

 世の夫婦のために書いたのですが、レヴューは男性読者からのほうが圧倒的に多く、予想外でした。女性も読んでくださったのですが、読んでいると多分苦しくなるのでしょうね、みなさん、言葉少なのコメントでした。   
ぼーちゃんは、よくこれだけ書いてくださったものです。思わず「逃げない女ですね」と言ってしまいました。以下が、ぼーちゃんのレヴューです。

 

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『たった一つの抱擁』読みました。

 

 私、このお話し苦手です(>_<) 読んでいて心が苦しくなって途中で投げ出したくなってしまいました。
・・・だってあまりにもリアルに女心が表されていて、私自身の心を回想させられてしまったんですもの(≧▽≦)・・・・
夫・夫・夫・ 愛・ 恋・・・ムムムム・・・(>_<)

 

ある本に書かれていた文字、夫婦とは究極な男と女の関係である・・と なるほど 私なりに解釈したのです、色々な面、憎しみ・嫌な所、醜さ、そして愛おしさ・恋しさ・全てを認めて受け入れて一緒に歩む・・・

そこには多少の諦めの心も、ある意味心を楽にする一つの方法である気もするのです。私が多分そんな部分があるんかなぁ 。(笑い)

 この本は家庭を持ち子供を持った女性の心の動きを事細かく描かれた物語で、この本を読まれた女性のほどんど100%に近い方達が共感できる内容ではないかと私は思います。 私的には少し違う部分もありましたが・・・・

捉え方は男性脳と女性脳の違いも大いにありますよねっ(^_-)-☆
夫婦間も根源は人間関係だと思いますし、その人間関係の一番大切なものは、何と言っても優しさ、そして相手を思いやる心だと私は思うのです。

 この物語の終板の旦那様に宛てた手紙の部分からの発展がジィ―んと心に沁み込む感じがあり、何よりも・『たった一つの抱擁』・これでOK
私の好きな感覚で物語を読み終えてホッっとしました。

確かに 『たった一つの抱擁』・・これなんですよねっ 。女性の本当の心に響く行動 。その意味が心に響きました。 まさにこれなんですよねっ  読んでいて起きてくる苦しさが これでスぅ~^っと消えましたもの・・よくぞここまで捉えて文章に表せられるものだと、驚きと感動でいっぱいでした。

逃げない女 ぼーちゃんです

 

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ぼーちゃん、ありがとうございました。

実はこれまで書いた3作は、女性の人生をあらゆる局面で描いてみようと思った女性シリーズの各部分なんです。ですから登場人物はみんな繋がっています。「たった一つの抱擁」の主人公綾子は、「沙羅と明日香の夏」の明日香の母で、「青い鳥のロンド」の主人公・菜摘子(なつこ)の兄嫁です。次は菜摘子の姉・遥(はるか)を主人公にした恋愛テーマ小説を書く予定です。

 女性の人生を・・・と思って書き始めた女性シリーズですが、書いてみると、どの局面においても男性の人生と不可分であることが分かりました。ですから男性も読者になってくれるのでしょうね。

 

夫婦間のことが最も難しく、私自身がもう書くのが苦しくて投げ出したくなりましたが、女の一生を描くならここを避けては通れまいと、蜻蛉日記を読み返しては、自分に都合のいいことも悪いことも、何一つ隠し立てせず己が真実を暴き立てる、もの書きの業を持った女の強さを見習いながら、四苦八苦して作った作品です。


小説中の出来事はすべてフィクションで、私小説ではないのですが、綾子の体験した心理は、筆者である私自身の内から出たものでありますし、リアリティを増すために日記というドキュメントタッチで描きましたので、綾子に関しては、本当のことと思って読んでいただければ本望です。
ただ、私の夫の人権のために、綾子の夫は著者の夫とはまったくの別人であることをお断りしておきます。私は私小説は書きません。

 


 「 たった一つの抱擁 」緋野晴子(文藝書房) ¥1296

 

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いつの間にか乖離してゆく夫婦の愛と性を、妻の側から見つめた作品。
女とはどういうものか? 男とはどういうものか? 
夫婦が愛し合い続けるとは、どういうことか? 
妻であるあなたも、夫であるあなたも、読んでみていただけたらと思います。

 

ネットショップ「楽天」にはまだたくさんありますので、興味を持たれた方はお読みになってみてください。ただし、女性も男性も、苦しくなるのは覚悟してお読みくださいね。男と女の真実は苦しいものです。

これが著者の幸せ

久しぶりに「沙羅と明日香の夏」へのレヴューをいただきました。「青い鳥のロンド」を読んでくださったぼーちゃんが、前作にも興味を持ってくださったものです。
以下は、原文のままです。

セイラさん 読みました 読みましたよ『沙羅と明日香の夏』・・・
1ページ 2ページ そして3ページとめくってるうちに、セイラさんの文章のタイムマシン魔術にかかって、沙羅ちゃん明日香ちゃんの世界にグングン引き込まれていき、懐かしさもいりまじり,温かい心の風を感じました。
一見苛める方が強いような錯覚を起こしてる現状ですが、人の心を傷つける事が何と弱い情けない事なんだろうと言う感覚を呼び起こしてくれる素敵な本だと思います。
それに、セイラさんの巧みな言葉使いが素敵だなぁ~と思う所が多々ありました中で、『扇風機が首を振りながらせっせと風を送る』が、一生懸命さ、そして可愛さも感じとても好きです。 
『沙羅と明日香の夏』この本を読みながら浮かんだもう一つの本名があります『いじめ問題・対策参考書』いかがでしょう・・・沙羅ちゃん・明日香ちゃんと同じお年頃の全国の中高生にできる事なら配ってあげたい素敵な本です。 

 というのが、最初にいただいたレヴューですが、それから数日して、また追加のレヴューをくださいました。 
 
セイラさん 実を言いますとねっ、私が書きました『沙羅と明日香の夏』の感想・・・あれは本を読んでいる途中までの感想だったんです。あまり感動したものですから、最後まで読んでも同じだろうと思い先走って書いてしまいました・・・
ところが ところが 後半での展開は、明日香ちゃんの田舎での心温まる沢山の触れ合いに胸がキューンとして思わす涙目になったり、宇宙レベルでみた人間の命のはかなさと、はかなさゆえの命の大切さ、型にはまらない心の大切さ、心の広さ、そして心の温かさを感じることが出来て、読み終えた時には、ほわっとした温かい酸素が胸いっぱいに入ってきたような爽やかな素敵な気持ちになっていたのです 
ステキな本を読ませていただきありがとうございました。改めて感想を付け加えさせていただきました。

ぼーちゃん、こちらこそ、素敵なレヴューをありがとうございました。
ああ、伝わるべきものが伝わっているなあと感じるこの嬉しさ。著者冥利に尽きます。
谷川の清流と、☆彡降る夜、大ばあちゃんと蛍の思い出、仏法僧の山に、天文台、愛すべき6人の若者たちと事件・・・・
ぼーちゃんのレヴューのお蔭で、ほんとうに久しぶりに、自分自身が創ったあの世界にまた引き込まれていきました。
 
小説の世界は不思議です。非現実であるはずなのに、現実よりもはっきりとした陰影を持っていつも私のすぐ隣にあるのです。思い出しさえすれば、とたんに私はその世界に引き込まれていきます。そこにある光も、音も、匂いも、風も、私にはリアルすぎるほどリアルな、現実そのものに感じられるのです。そこを歩けば、どこかであの若者たちに出くわしそうな気がします。
 
ちょっと気になったので調べてみましたら、ほとんどのネット書店ではもう在庫切れになっていました。もちろん書店にはありません。
この小説は愛される小説だったようで、ほんとうにたくさんの方が買ってくださいました。出版社さんにも残り僅かなようですし、私の手元にもあと5冊しかありません。Amazonには1冊。ただ、中古が5冊出ています。それですべてだと思います。興味を持たれた方はお急ぎください。
 
また、全国で40ほどの図書館には在庫されていますので、ひょっとしたらお近くの図書館にもあるかもしれません。ない場合は、カウンターでリクエスしてみてください。近隣の図書館から取り寄せてくださったり、購入したりしてくださいます。
 
 
ミンミンゼミが鳴き始め、夏ももう終わりですね。 
思いがけず、ぼーちゃんが「沙羅と明日香の夏」を訪れてくださって、同じ夏を味わえて、きょうはとっても幸せな気分のセイラ(緋野)です。

自分らしさを思う 50代女性 I さん

かつての同僚 I さんに「青い鳥のロンド」のレヴューをいただきました。 I さんは何があってもへこたれず、いつも明るい方を向いて、解決策を見出して前に進む、根性のある女性でした。今も現役でフルタイムの仕事をこなす、50代後半に入った彼女のレヴューです。

「青い鳥のロンド」 読みました。
私も今まで33年勤めてきて、仕事と家事と子育てについて考えてきました。今は子どもはみんな就職し、孫もできて、嫁に夕食を作ってもらう環境です。子育て中に比べれば楽になったはずなのですが、年齢とともに体力は減退し、逆に職場での役職は上がり、今はこの過酷な場所で人間関係に疲れています。
実は昨日は熱でお休みをもらって寝ていたので、きょうは静養を兼ねて本を読ませてもらったというわけです。
 
読み通して、自分らしく働く意義を考えてしまいました。変な責任に押しつぶされている今の自分を思います。そしてその、「自分らしさ」というものがまた、よく分からないのです。 33年間、よく頑張ってきたとは思います。仕事と家事と育児の間を駆け抜けてきて、それぞれをなんとか回せて来られて、それぞれがなんとか収まるところに収まってくれて、けれど、何となく達成感が乏しいような気がするのです。
私は私らしく生きてきたのだろうか? 私は何をしようとしてここまで来たのだろうか? 何がしたかったのだろうか? と。
 
本とあまり関係のない、自分の話になってしまいましたね。
でもとにかく、この本は、幸せについて考える機会になりました。自分自身、夫、孫、嫁、それぞれの幸せというものを思いました。

I さん、ありがとうございました。ほんとうに過酷な、戦場を駆け抜けるような生活でしたよね。早くにリタイアした私から見ると、あなたの頑張りは驚異的です。あなたの33年に及ぶ頑張りに、心から敬意を表します。
 

    「青い鳥のロンド」緋野晴子著(リトル・ガリヴァー社) 
 
* 全国書店でお求めいただけます。(店頭にない時は書店にご注文ください)
* 楽天ブックスAmazon 等ネット書店にもございます。
* 庶民の味方、図書館でリクエスして、購入していただくこともできます。

小説の森で - 9.誰に向かって書くのか?


「青い鳥のロンド」は、読者の感想にずいぶん差のある小説だった。感想に差があること自体は悪いことではないと思う。それは作品の幅というものでもある。
けれど、作者緋野の意図した肝心なものは、読む人すべてに伝わっていただろうか? 緋野の魂はすべての読み手に届いていただろうか? 届いた上での感想の幅だったろうか? 
・・・否である。
ではそれは、表現の拙さによるものだったろうか? 
・・・半分はそうかもしれない。が、半分は否だと思う。

それは恐らくこの作品が、女性の心理を主として描いていることに起因していると思われる。男性には共感できる心理的体験がないのだ。のみならず共感したくないという心理の働く男性も少なくないのかもしれない。真の幸福を求める女性の心理は、男性にとっては関心の薄い、あるいは耳の痛い、ひいては都合の悪いものなのかもしれない。
この作品は男女を含めた幸福を追求したもので、そんな偏狭なものではないのだけれど。

いずれにしても、「青い鳥のロンド」は、読者を選ぶ小説だ。
小説が読者を選ぶ・・・
ここで緋野が考えてしまうのは、「私は誰に向かって書いたのだったろう?」ということだ。

 小説は独白ではない。独白なら大学ノートにでも書きつけておけばいい。小説を書くということは、意図的に現実そのものとは別の世界を創り出すということであり、なぜそうするかと言えば、そこに誰かを招き入れたいから、つまり、読者を求めるということだ。
 
 作者は、この混沌たる世界の中から、自分だけが感じ取った主観的な世界を、一枚の透明なスクリーンのように漉しとって、小説という文章の中に展開する。自分というフィルターを通して整理・象徴された世界の中に生きてみようとするのだ。
だから、最初にその世界に招き入れられるのは、作者自身ということになる。
けれども、それだけでは終わらない。描かれた世界は独白と違って、必ず他の訪問者を、より多くの訪問者を求めるものだ。それは、「誰かの魂と繋がりたい」という、小説に潜んだ人間の根本的な欲望による。
 それならば、その訪問者は誰でもいいのだろうか? 多ければ多いほど? 
 
 確かに門戸はすべての人に向かって開けているし、総じて作者には、世界をこんなふうに見ている者がいるということを、より多くの人に知ってもらいたいという欲求があるだろう。
「青い鳥のロンド」の場合で言えば、緋野には、女性はもちろん男性たちにも広く読んでもらい、人間としての幸福・家族の幸福・日本社会の将来について、共に考えてもらいたいという願望があった。出版費用をカバーできるだけの多くの人に読んでもらえないと困るという切実な思いもあった。

それでも、よくよく心の奥を探ってみると、結局のところ、私がほんとうに自分の世界に招き入れたいと望んでいたのは、自分に似た魂を持つ誰かだったのだということに気がつく。私は、男性でも女性でもとにかく、魂の通う相手を探していたのだなあと。
それは私以外の作者でも、たぶん同じことだろうと思う。
 だから、作者は誰に向かって書くのかといえば、それは男だ、女だ、何十代だということではなく、不特定多数の、あるいは不特定少数の、魂の通う誰かなのだ。
ということはつまり、作者としては、ひたすら自己の世界を芸術的に描き出すことに専念すればいいということになる。
 
 特定の読者を念頭に置き、その読者層にアピールするように書くなどということを考え始めると、小説は駄目になるような気がする。緋野は一時期、人に読んでもらうからには誰に向かって書くのかを意識しなければいけない、そういうことにも敏感にならなければならないと思った時期があった。けれども、それは間違いだ。書くときは、あくまで、徹底的に、自分自身を発信することだ。
そうすれば、小説が自ずと読者を選んでくれる。その選ぶに任せればいい。 なべての人々の魂を呼び込む場合もあれば、片寄る場合もある。それでいいというのが、緋野の結論だ。
 
 ただし、どんな人が読者さんになってくれるだろうか? ということは一考の余地があると思う。緋野は「沙羅と明日香の夏」を書いた時、中高生にも読めるようにと、漢字その他の表記にずいぶん気を配った。読者を想像してみて多少の表記を変更することは、自分の世界に人を招き入れる者として、必要なように思う。
 
 ちなみに、文学賞の求めるものを意識して書くというもの、言わせてもらえば邪道だと思う。文壇は、作家という職業を生業にしている人たちのギルド社会だから、そこで目を引くのは、新鮮な素材・新しい技法・珍しい文体・斬新な構想・細工のかかったプロット等。
けれども、そこから入って捏ねくった小説は、生きた小説にはならない。
あくまで自分の内から突き上げてくるものを、どう展開すれば小説世界の中に完璧に描けるか、そのための表現方法を探るべきだと、私は思う。