小説を芸術の一種であると初めに宣言したのは坪内逍遥。以来、純文学と呼ばれ
る小説には今日までずっと芸術性というものが要求されている。そも、芸術が芸術
である資格とは何なのか?
それは、「作品そのものとしては現されていない何かが鑑賞者の内に感覚として湧
き起こり、それが心を動かす」ということではないだろうか。
私たちは現実生活の中で様々なものを目にし、様々な音を聞き、様々な言葉を書
き話す。けれど、それだけでは私たちが感動に至ることは難しい。ところが、同じ
現実が作者というフィルターを通して意図的に切り取られた時、そこに一つの特殊
な世界が出現する。それは現実の物で作られていながら、現実の煩雑さはふるい落
とされ、一定の方向に純化された世界だ。作品にその醸し出す世界というものがあ
って、それが人の深部に何らかの感銘を与える時、その作品を芸術と呼ぶのだと思
う。
この世界に芸術と呼ばれているものはいろいろあるが、大別してみると次の四つ
くらいになるだろうか。
① 音楽…聴覚だけの世界
② 芝居(演劇・映画)…動きを伴った視覚+聴覚の、擬似現実世界
③ 美術(絵画・彫刻・陶芸・写真)…静止した視覚だけの世界
④ 文学(小説・詩歌・エッセイ)…言葉(文字という視覚)だけの想像的世界
音楽 は、音だけによって作られた世界で、音というものは人間の感覚に圧倒的
な力で作用するものだから、それが音でできた作品とならば、自ずと様々な気分
や感情を喚起させる。人によってはいろいろな風景や物語が浮かんでくることも
あろう。
そこがすなわち、芸術というものだ。
芝居は、臨場感があって自分もその場のどこかにいるような感覚になるため、非
常に現実世界に近い。けれども、嗅覚・触覚・味覚は鑑賞者が想像するほかなく、
鑑賞者には、劇中に見えない場面すら想像されることがある。また、その芝居世界
の表すテーマは、それが十分うまく作られているならば、人の心に大きな波紋を広
げることになる。よって、芸術の資格を持つ。
この音楽と芝居という芸術は、人の感覚に直接能動的に働きかけてくるため、
鑑賞者は受身でいられて(言わば楽で)享受しやすいという特徴がある。また、鑑
賞者に提供する要素が多いため、感動を一定の方向に導きやすい。つまり、誰にも
分かりやすいということであり、巷間に流布しているのも頷ける。
美術も、感覚に直接訴えるという点では、同じくハードルが低いと言えるだろう
けれど、視覚、それも点景だけの沈黙の世界。そこから何を感じ取れるかは、鑑賞
者の審美眼に負うところが大きいように思う。そのため、よく分からない・難しい
といった感想も生じやすい。今ひとつ人気のない原因だろう。
そして文学。言葉だけの、もちろん芸術品。これには他の三つとはかけ離れた特
徴があるように思われる。長くなりそうなので、次回に、文学のうちの小説に絞っ
て考えることにしよう。
小説の森にも春の陽が射してきた。異形の森も様々な花を開き始めて、つい妖し
い香りに誘われ、惑わされてしまいそうになる。